2023-06-08
小説「百日紅の咲く庭」
顕光アンソロジーhttps://twitter.com/Akimitsu_1000に掲載した小説をアップします~。
主催の久賀フーナさん、ありがとうございました。
こちらの同人誌はまだ購入できるようですよ。
魅力的な作品ばかりですので、興味をもたれましたらぜひ(*^_^*)
二条大路と堀川大路の交差するところに、堀川の邸がある。この邸は二町ほどの広さを誇る大豪邸だ。
初夏らしい涼しげな風の吹くこの日、邸から産声が上がった。邸の主である藤原顕光と北の方盛子内親王とのあいだに、男児が生まれたのだ。
夫妻にとって、初めての子どもだった。
「上、よくやってくれた」
赤子を抱きながら、顕光は感激して涙ぐんでいる。
「あなた、そんな大げさですわ」
盛子内親王が少しあきれたような顔をして笑う。高貴な血筋の妻は、夫に対しても疲れたそぶりは見せない。それが夫・顕光には他人行儀に感じられて、なんとなく寂しい。
「上、子どもも生まれたことだし、あなたにはもっと私を頼ってほしい」
顕光は北の方の手を取った。
「あの、他の者もいるのですし、こういうことは恥ずかしいですわ」
局の内には、産婆や祈祷師などがいた。盛子内親王は顕光の手を振り払おうとした。
「そんなことを言わないで。私はあなたと、まことの家族を作りたいんだ」
「まことの、家族?」
「そうだ。私は父兼通にはほとんど顧みられなかった。父は私の異母弟ばかりをかわいがっていたから。だから私は決めていたんだ。私は真に温かい家庭を築こう、と。家族の誰にも寂しい思いはさせない。あなたにも、いま生まれたこの子にもね」
「そうだったのですの……」
盛子内親王は、夫の愛情深さの理由を、このときに初めて知ったのである。
(殿方とは思えぬまめまめしさ、行き届いた気遣いは、こうしたところからきていたのね。その反面寂しがり屋で、いつも目に見えないなにかを求めているようなところもあって。この方はずっと愛情に飢えていらっしゃったんだわ)
盛子内親王は握られていた手に、自身の手のひらを重ねた。
「そうですわね。私も作りたいと思います。あなたとともに、幸せな家族を」
「上!」
顕光は盛子内親王に抱きついた。
「人がいるとさっきも言ったのに」
盛子内親王は苦笑いを浮かべつつも、その腕を振り払おうとはしなかった。
数日後、顕光が突然こんなことを言い出した。
「上、記念樹を植えないか?」
「記念樹?」
「そうだ。この子が生まれた記念に庭に樹を植えるのだ」
「いいですわね」
盛子内親王が顔をほころばせる。
「今の季節ですと、何がありますかしら」
盛子内親王が顎に手を当てながら思案する。
「私は、百日紅が良いと思う」
「百日紅ですか。男の子だというのに、可愛らしすぎませんか?」
盛子内親王が笑って言う。
「長い間花を咲かせるし、華やかだし、私のお気に入りの樹なのだ。それに、次に生まれる子は男とも限らないだろう?」
「そんな、まだ初子が生まれたばかりですのに、殿ったら気のお早い」
盛子内親王が照れて頬を赤くする。
「いや、子どもは可愛い。十人だって欲しいくらいだ」
「十人!」
盛子内親王が目を丸くする。
「まあ、それは冗談だがね、子供が何人でも欲しいというのは、私の本心だよ」
盛子内親王は、笑みをたたえながら夫の話を聞いていた。夫は愛情を注ぐ相手がたくさん欲しいのだろうと思った。
「今度は女の子が良いな。あなたに似た、輝くばかりの美しい子が、我が家にやってくるといいな。そしてその子を、私は帝の后にしたい」
「あなたったら、本当に気のお早い……」
盛子内親王はくすくすと笑い始めた。そこには顕光の求めていた、幸福な家族が紛れもなくあった。
数年後。庭の百日紅は三つに増えていた。盛子内親王が、あれから子どもを二人産んだのだ。二人目と三人目は女の子だった。盛子内親王に似た、可憐で愛らしい女児である。
顕光は、子どもたちを分け隔てなく可愛がった。
「ほらほら、お父さんでちゅよー」
慣れた手つきで子どもを抱き上げる。
「本当に殿の子煩悩なこと」
女房たちがささやきあう。盛子内親王も満足げだ。
(あんなに子どもを可愛がってくれて。私のこともこの上なく慈しんでくれて。家族想いの夫を持てて、私は幸せ者だわ。他の貴族からは殿は愚鈍で仕事が出来ない、みたいにいわれているようだけれど、それがなんだというの。家族のことを大事に出来る。それが一番、大切なことじゃないの。まあ、殿は家臣も家族のように大事にするから、家臣がつけあがって乱暴な振る舞いをするのが難点だけれど。きっと、お寂しいのね)
夫の抱えているものが、まだ癒やされないのを感じ取って、盛子内親王はいたたまれないような気持ちになるのだった。
顕光と盛子内親王の最初の子は、成長して重家と名付けられた。
重家は、心ばえの優しい少年だった。あるとき、顕光が首にひもをかけて飼っていた鳥を、重家がこっそり逃がしたことがあった。それを知った顕光は、重家を叱った。
「どうしてこんなことをしたんだ!」
「鳥がかわいそうだと思ったのです。空を目の前にして、羽ばたくことも出来ず、ただ生きているだけ。自由が欲しいのではないかと、そう思ったのです」
「いっぱしの口をきくんじゃない!」
重家は父の諫言を黙って聞いていた。
そんな父子のようすを、盛子内親王は浮かない表情で見ていた。
(この子は優しすぎる。貴族社会の荒波に揉まれて、やっていけるのだろうか。心配だわ)
盛子内親王はこの数年後に疱瘡にかかって命を落としたが、盛子内親王の抱いていた危惧は的中した。重家が、ある日突然出家したのだ。重家は二十四歳だった。顕光はなんとかして思いとどまらせようとしたが、重家の決心は固く、徒労に終わった。重家は輝くばかりの美貌で立ち振る舞いも立派、光少将とあだ名されるほどだった。そんな将来有望な貴公子なぜ、と皆が不思議がった。
自室で、顕光はがっくりと肩を落とした。
しばらくは何も手につかなかった顕光だったが、周囲の説得もあり、また職務に精を出し始めた。
顕光の上の娘は、この頃ときの帝の妃だった。名を元子という。元子は可憐でどこか頼りなく、庇護欲をそそるような女性だった。帝の寵愛も深かった。
ただ、四年前のある出来事が原因で、近頃では里に籠もりがちであった。
ことのあらましはこうである。元子は当時懐妊していた。ところが産み月になっても子は生まれてこず、生んだのは水ばかりだった。血すら出てこなかったという。
華々しく内裏を退出し、大がかりな祈祷を頼んでいた元子たちは、たいそう恥ずかしい思いをした。顕光は茫然自失していたし、盛子内親王はおろおろするばかりだった。元子は水を生んだ後は顔を隠してひたすらに恥ずかしがっていた。帝は事の次第を聞き、遠く離れた内裏で、元子のことを不憫がった。
この一件があった後、帝は元子を内裏に呼び戻そうとした。が、元子は身体の調子が思わしくなく、床に伏せっていた。盛子内親王は元子を気遣い、言葉を丁重に選んで辛抱強く慰めた。顕光の方はなんと言葉をかけたら良いのかがわからず、よそよそしい態度をとってしまっていた。元子はそれを「父は私に失望しているのだろう」と思い込み、ますます気落ちするのだった。
父顕光とのあいだに小さな溝を抱えつつも、元子はやがて後宮へと戻り、帝の寵愛を取り戻した。
帝には、元子の他にも多くの妃がいた。その妃たちの勢いにおされて、そのうちに帝は元子のもとを訪れることは少なくなった。
そんなことが数年続くうちに、帝は崩御した。元子は嘆き悲しんだ。
帝との日々を思い出し、悲しみに暮れている元子に、ある男が近づいてきた。元子のいとこでもある彼は、傷心の元子を慰めたいと思い、文を贈った。元子は気持ちのこもった文をうれしく思い、返書をしたためた。そうして手紙を送り合っているうちに、その男は元子を自らの手で支えたいと願うようになった。元子もまたその真心に応え、二人は結ばれた。男の名は源頼定という。
あれは何度目の逢瀬のときだったか。元子の住む堀川邸に忍び込んできた頼定が、顕光に見つかってしまった
「なっ・・・・・・」
突然のことで、顕光は言葉が出てこない。
頼定の方は落ち着いたものであった。
「右大臣さま、順番が逆になってしまって申し訳ありません。元子殿に結婚を申し込みたいのですが」
言を遮って顕光が怒鳴る。
「帝の妃に、なんということを。娘を軽んじる真似は、許さない。即刻去れ!」
顕光は身体を震わせていた。
「お言葉ですが、帝はもう崩御されました。それに、私は元子殿を軽んじたつもりは・・・・・・」
「とっとと去れ! さもなくば追い出してやる」
顕光は下人を呼ぼうとした。頼定は説得することを諦め、その場から立ち去った。
翌日、顕光は元子の髪を切り、出家させた。元子は泣きながら頼定との仲を認めて欲しいと懇願していたという。
無理矢理尼にされても、元子は頼定と逢うことをやめなかった。頼定の方も、髪を失った元子を捨てるようなことはしなかった。
思いあまった顕光は、
「どこへなりとも行ってしまえ!」
と元子を邸から追い出した。元子は頼定の元へと走った。元子初めての、父への反抗だった。
元子は帝とのあいだに、皇子を儲けることは出来なかった。顕光が最後に期待を寄せたのが、末の妹の延子だった。
元子が頼定の元に走った頃、顕光はときの帝の第一皇子を延子の婿にした。帝は元子の夫・先帝のいとこだった。
延子は向かい合った者が気後れしてしまうような美人で、歌才にも恵まれていた。元子とはまた違う魅力の持ち主であった。人々はあの愚鈍な右大臣の娘にしては、それぞれ器量に優れていることだ、とささやきあったという。
延子は皇子とのあいだに子どもを産んだ。顕光は孫を可愛がり、皇子ともども手厚くもてなした。
「さあさあ、ここにお馬さんがおりますよ」
「わー」
顕光は手を床について、馬に扮した。宮たちは大はしゃぎである。
「僕が一番だ」
「えー、ずるいー」
「順番に、順番に」
顕光がなだめる。
そのようすを見て、延子と敦明親王が笑い合う。それを目にした顕光が顔をほころばせる。
(延子は婿殿にこの上なく愛されている)
顕光はうんうん、と首を縦に振った。ほっとして、涙ぐみそうになるのをこらえる。
(こんなことで涙が出るなんて。私も年をとったということか)
顕光は、別の形で家族の団らんを手に入れたのだった。
延子の夫・敦明親王はやがて東宮となった。延子が近い将来、后となるのも夢ではないように思われた。少なくとも、顕光はそう信じていた。
しかし、敦明親王は周囲の圧力に負けて東宮位を辞退した。東宮に立てられてから、一年半ほどしか経っていなかった。東宮位を辞退しただけでなく、敦明親王はときの権力者藤原道長に婿とられた。道長は贅を尽くして敦明親王をもてなした。敦明親王はしまいに堀川邸には寄りつかなくなり、延子は捨てられたも同然だった。
娘を想う顕光は憤慨はするものの、道長に抗議することは出来なかった。そんなことをするほど顕光は若くもなく、また分別がつかないわけでもなかった。顕光はこのとき七十三歳だった。勇気も無謀さも、とうの昔に忘れ去っていたのである。
顕光は夜になると一人、声を押し殺して泣いた。右大臣の地位にありながら、彼は孤独だった。
そのうちに延子は病気がちになり、儚くも命を落としてしまった。顕光の悲嘆はすさまじかった。延子の魂を返したまえ、返したまえと、うわごとのように繰り返していた。
この頃、顕光の後妻量子のはからいで、顕光は頼定・元子夫妻と同居していた。この後妻は藤原道兼の未亡人で、顕光とはいとこにあたる。思慮深く、愛情深い女性であった。
頑迷なところのある顕光は、元子のことを許しつつもそれを態度に出すことは出来なかった。元子と接するときはいつも仏頂面で、口数も少なかった。それに頼定は反感を抱いていた。
延子が亡くなった日、頼定と元子とその子どもたちはそっと堀川の邸を出た。穢れに触れることを避けたかった、頼定の判断だった。そこには日頃の顕光の行いも、もちろん関係していた。
顕光が気がついたとき、元子たちの住む空間はもぬけの空だった。顕光はこの日、娘を二人失った。
それでも量子からの説得などもあったのだろう、翌年には頼定と元子一家はまた堀川邸に舞い戻った。延子の死が堪えたのか、顕光も今回ばかりは元子たちを手厚く迎え入れた。量子はそれを見て安堵するのだった。
ぎこちないながらも、堀川邸は元の活気を取り戻そうとしていた。だが、悲劇はくりかえされた。
頼定が、病を得て亡くなったのだ。四十四歳だった。元子は涙を流して悲しんだ。顕光はただ呆然とするしかなかった。
ただ、顕光の脳裏に、延子の忘れ形見の宮たちの姿がちらついた。前途ある宮たちのために、この邸を縁起の悪いものにするわけにはいかない。顕光はここ堀川邸で頼定の四十九日を催すことを禁じた。
元子は父の非情なふるまいに落胆した。
頼定の死から一年も経たない頃、今度は顕光が床についた。ひどく咳き込んで、起きることすらままならない。病は日ごと重くなり、年齢的にも助かることはないように思えた。
顕光は、寝所で往事を振り返っていた。
(なぜ大切な人は私の元を去って行くのだろう……)
顕光は盛子内親王のことを思い出した。
(私には過ぎた妻だった。内親王という身分だけでも貴いのに、いつでも私を立ててくれて。優しくて、朗らかで。立派な子どもを三人も産んでくれた)
顕光は目を閉じた。
(子どもといえば、長男の重家。あれは今、どうしているのだろうか。出家したいと言い出したときには、頭ごなしに叱りつけてしまった。あれは線の細い、たおやかな子だった。今ならわかるが、たしかに俗世で生き抜くのは、大変だったかもしれない)
顕光の脳裏に、重家の容貌が浮かんだ。出家したときの、若い頃の容貌だ。顕光はその頃よりも老いた姿は、知らないのである。
(絶縁などするのではなかったな)
顕光は後悔したが、時すでに遅し、である。
(それから、次女の延子。美しく、思慮分別のある娘だった。遅くに結婚させたせいか、気位が高すぎるところがあって。婿殿とうまくやれるか、最初は心配していたものだ。それは杞憂に終わったが。延子は婿殿に愛され、子どもにも恵まれて、本当に幸せそうだった。私がふがいないばかりに辛い思いをさせ、あげく死に追いやってしまった。全くもって申し訳ない)
顕光は延子の死に顔を思い出していた。苦々しいものが口の中にひろがり、胸が苦しくなる。
顕光は目を閉じた。すると、人が走ってくる音が聞こえた。顕光が首をかすかに上げる。
そこに立っていたのは、元子だった。
「元子、どうしたんだ」
「どうしたんだ、じゃありませんわ。ここ数日、母屋がやけに静かなので、おかしいと思って女房を問い詰めたのです。こんなに身体をお悪くしているなら、私にも教えてくださいませんと。なんと水臭い」
元子の背後には、量子が立っていた。元子に自分の病状を詳しく伝えたのは、量子なのだろうな、と顕光は思った。
「それは、その……」
顕光はしどろもどろになった。床についていることを隠していたつもりはなかった。ただ、自分の過去のふるまいを振り返る中で、元子に合わせる顔がないと思ったのだ。
顕光は視線を落として考えを巡らせていた。呼吸を整えると、やがて意を決して元子に向き合った。
「元子、すまなかった。おまえには、辛くあたってばかりだった。私はねぎらいの言葉一つ、おまえにかけたことはなかったな」
「お父さま……」
顕光の目に涙が滲む。嗚咽をこらえながら、顕光は声を上げた。
「私はいつもそうだ。去っていったものを数えるばかりで、目の前にいる大切なものの存在に気づかなかった」
顕光は元子を見、次にその後ろに立っている量子を見た。元子は驚いたのか、目を丸めていた。量子は少し微笑しているように見えた。
顕光がすすり泣きを始めた。
量子が顕光のもとにかけより、なだめはじめる。
「量子……。ありがとう、こんな私に、ついてきてくれて」
量子もまたもらい泣きをはじめた。
「お礼を言うのは私の方です。私ばかりでなく、私の連れ子にまでも良くしていただいて。私、あなた様のそばにいられて、幸せでしたわ。ええ、本当に……」
最後の方は言葉にならないようすだった。
元子もそれを見て、涙ぐんだ。たしかに辛い思いもさせられた。父さえいなければ、と思うこともあった。だが、あの仕打ちも自分のことを考えてこその行動なのだと、今では受け入れられるようになった。
「お父さま、なにか、私にして欲しいことはありませんか?」
元子はつとめて明るい声を出して父に尋ねた。
「そう、だな」
顕光は目を閉じた。そしておもむろに口を開いた。
「記念樹の、百日紅が見たい」
元子は量子と顔を見合わせた。元子たちきょうだいが生まれたときに植えられた百日紅は、とうの昔に枯れていた。
「わかりました。今、枝を摘んできます」
おろおろする量子を尻目に、元子はその場から離れた。
しばらくして、元子は小さな百日紅の枝を持ってきた。
「お父さま、延子の記念樹です。赤い花が、きれいでしょう。美しく、気高かった延子を思い起こさせますね」
元子が笑いかける。わざと明るく振る舞っているのは、誰が見ても明らかだった。
「ほんとう、だな」
顕光がうっすら微笑した。
「少し疲れてしまった。そろそろ一人にしてくれないか」
顕光にそう言われた二人は、揃って寝所を後にした。
寝所を出たあとで、量子は元子に尋ねた。
「元子さん、あの百日紅は?」
「別の庭に咲いているのを摘んできました。どうしても父に見せたくて」
思わず最後に、と言いそうになったのを堪えた。だが、元子にしても、量子にしても、顕光が回復するとは信じていないのだった。
「そうだったのですか……」
量子が呟く。
「元子さん、ありがとうございます」
量子が元子に頭を下げる。
「そんな、頭を上げてください」
元子が慌てて手を横に振る。
「殿も、これで心残りはなくなったと思います。あとはもう……」
量子はそこまで言って口をつぐんだ。あとはもう思い残すことはない、そう言おうとしたのだろうな、と元子は気づいたが、口には出さなかった。代わりにこんな言葉が口をついて出た。
「私からもお礼を言わせてください」
元子が量子に向き直る。
「えっ?」
「父と添い遂げようとしてくれて、ありがとうございます」
元子が頭を下げる。今度は量子が手を横に振る番だった。
「そんな、滅相もない」
それを聞いた元子が無言で微笑みかける。量子もまた、無言でそれに応える。
二人のあいだには、顕光を通して絆が生まれていた。
その日の深夜、顕光は息を引き取った。元子と量子は、静かに顕光を看取った。顕光は安らかな顔を浮かべていた。
顕光の死から十日ばかりが経った頃、元子は邸の庭を散歩していた。記念樹のあたりを通り過ぎようとしたとき、赤いものがあることに気づいた。見れば延子の記念樹が、花をつけているのだった。
「うそ」
元子にはとても信じられなかった。
(たしかに枯れていたのに……)
赤い花を、じっと見つめる。その赤い花は、小さいながらも瑞々しく、生命力にあふれていた。
元子にはそれが、不器用だった父が最後に伝えようとした、感謝の気持ちのように思われた。
花をそっと手に包み、空を見上げる。
(お父さま、どうか安らかに)
元子の目に、涙がひとしずく流れた。
主催の久賀フーナさん、ありがとうございました。
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「上、よくやってくれた」
赤子を抱きながら、顕光は感激して涙ぐんでいる。
「あなた、そんな大げさですわ」
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「上、子どもも生まれたことだし、あなたにはもっと私を頼ってほしい」
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局の内には、産婆や祈祷師などがいた。盛子内親王は顕光の手を振り払おうとした。
「そんなことを言わないで。私はあなたと、まことの家族を作りたいんだ」
「まことの、家族?」
「そうだ。私は父兼通にはほとんど顧みられなかった。父は私の異母弟ばかりをかわいがっていたから。だから私は決めていたんだ。私は真に温かい家庭を築こう、と。家族の誰にも寂しい思いはさせない。あなたにも、いま生まれたこの子にもね」
「そうだったのですの……」
盛子内親王は、夫の愛情深さの理由を、このときに初めて知ったのである。
(殿方とは思えぬまめまめしさ、行き届いた気遣いは、こうしたところからきていたのね。その反面寂しがり屋で、いつも目に見えないなにかを求めているようなところもあって。この方はずっと愛情に飢えていらっしゃったんだわ)
盛子内親王は握られていた手に、自身の手のひらを重ねた。
「そうですわね。私も作りたいと思います。あなたとともに、幸せな家族を」
「上!」
顕光は盛子内親王に抱きついた。
「人がいるとさっきも言ったのに」
盛子内親王は苦笑いを浮かべつつも、その腕を振り払おうとはしなかった。
数日後、顕光が突然こんなことを言い出した。
「上、記念樹を植えないか?」
「記念樹?」
「そうだ。この子が生まれた記念に庭に樹を植えるのだ」
「いいですわね」
盛子内親王が顔をほころばせる。
「今の季節ですと、何がありますかしら」
盛子内親王が顎に手を当てながら思案する。
「私は、百日紅が良いと思う」
「百日紅ですか。男の子だというのに、可愛らしすぎませんか?」
盛子内親王が笑って言う。
「長い間花を咲かせるし、華やかだし、私のお気に入りの樹なのだ。それに、次に生まれる子は男とも限らないだろう?」
「そんな、まだ初子が生まれたばかりですのに、殿ったら気のお早い」
盛子内親王が照れて頬を赤くする。
「いや、子どもは可愛い。十人だって欲しいくらいだ」
「十人!」
盛子内親王が目を丸くする。
「まあ、それは冗談だがね、子供が何人でも欲しいというのは、私の本心だよ」
盛子内親王は、笑みをたたえながら夫の話を聞いていた。夫は愛情を注ぐ相手がたくさん欲しいのだろうと思った。
「今度は女の子が良いな。あなたに似た、輝くばかりの美しい子が、我が家にやってくるといいな。そしてその子を、私は帝の后にしたい」
「あなたったら、本当に気のお早い……」
盛子内親王はくすくすと笑い始めた。そこには顕光の求めていた、幸福な家族が紛れもなくあった。
数年後。庭の百日紅は三つに増えていた。盛子内親王が、あれから子どもを二人産んだのだ。二人目と三人目は女の子だった。盛子内親王に似た、可憐で愛らしい女児である。
顕光は、子どもたちを分け隔てなく可愛がった。
「ほらほら、お父さんでちゅよー」
慣れた手つきで子どもを抱き上げる。
「本当に殿の子煩悩なこと」
女房たちがささやきあう。盛子内親王も満足げだ。
(あんなに子どもを可愛がってくれて。私のこともこの上なく慈しんでくれて。家族想いの夫を持てて、私は幸せ者だわ。他の貴族からは殿は愚鈍で仕事が出来ない、みたいにいわれているようだけれど、それがなんだというの。家族のことを大事に出来る。それが一番、大切なことじゃないの。まあ、殿は家臣も家族のように大事にするから、家臣がつけあがって乱暴な振る舞いをするのが難点だけれど。きっと、お寂しいのね)
夫の抱えているものが、まだ癒やされないのを感じ取って、盛子内親王はいたたまれないような気持ちになるのだった。
顕光と盛子内親王の最初の子は、成長して重家と名付けられた。
重家は、心ばえの優しい少年だった。あるとき、顕光が首にひもをかけて飼っていた鳥を、重家がこっそり逃がしたことがあった。それを知った顕光は、重家を叱った。
「どうしてこんなことをしたんだ!」
「鳥がかわいそうだと思ったのです。空を目の前にして、羽ばたくことも出来ず、ただ生きているだけ。自由が欲しいのではないかと、そう思ったのです」
「いっぱしの口をきくんじゃない!」
重家は父の諫言を黙って聞いていた。
そんな父子のようすを、盛子内親王は浮かない表情で見ていた。
(この子は優しすぎる。貴族社会の荒波に揉まれて、やっていけるのだろうか。心配だわ)
盛子内親王はこの数年後に疱瘡にかかって命を落としたが、盛子内親王の抱いていた危惧は的中した。重家が、ある日突然出家したのだ。重家は二十四歳だった。顕光はなんとかして思いとどまらせようとしたが、重家の決心は固く、徒労に終わった。重家は輝くばかりの美貌で立ち振る舞いも立派、光少将とあだ名されるほどだった。そんな将来有望な貴公子なぜ、と皆が不思議がった。
自室で、顕光はがっくりと肩を落とした。
しばらくは何も手につかなかった顕光だったが、周囲の説得もあり、また職務に精を出し始めた。
顕光の上の娘は、この頃ときの帝の妃だった。名を元子という。元子は可憐でどこか頼りなく、庇護欲をそそるような女性だった。帝の寵愛も深かった。
ただ、四年前のある出来事が原因で、近頃では里に籠もりがちであった。
ことのあらましはこうである。元子は当時懐妊していた。ところが産み月になっても子は生まれてこず、生んだのは水ばかりだった。血すら出てこなかったという。
華々しく内裏を退出し、大がかりな祈祷を頼んでいた元子たちは、たいそう恥ずかしい思いをした。顕光は茫然自失していたし、盛子内親王はおろおろするばかりだった。元子は水を生んだ後は顔を隠してひたすらに恥ずかしがっていた。帝は事の次第を聞き、遠く離れた内裏で、元子のことを不憫がった。
この一件があった後、帝は元子を内裏に呼び戻そうとした。が、元子は身体の調子が思わしくなく、床に伏せっていた。盛子内親王は元子を気遣い、言葉を丁重に選んで辛抱強く慰めた。顕光の方はなんと言葉をかけたら良いのかがわからず、よそよそしい態度をとってしまっていた。元子はそれを「父は私に失望しているのだろう」と思い込み、ますます気落ちするのだった。
父顕光とのあいだに小さな溝を抱えつつも、元子はやがて後宮へと戻り、帝の寵愛を取り戻した。
帝には、元子の他にも多くの妃がいた。その妃たちの勢いにおされて、そのうちに帝は元子のもとを訪れることは少なくなった。
そんなことが数年続くうちに、帝は崩御した。元子は嘆き悲しんだ。
帝との日々を思い出し、悲しみに暮れている元子に、ある男が近づいてきた。元子のいとこでもある彼は、傷心の元子を慰めたいと思い、文を贈った。元子は気持ちのこもった文をうれしく思い、返書をしたためた。そうして手紙を送り合っているうちに、その男は元子を自らの手で支えたいと願うようになった。元子もまたその真心に応え、二人は結ばれた。男の名は源頼定という。
あれは何度目の逢瀬のときだったか。元子の住む堀川邸に忍び込んできた頼定が、顕光に見つかってしまった
「なっ・・・・・・」
突然のことで、顕光は言葉が出てこない。
頼定の方は落ち着いたものであった。
「右大臣さま、順番が逆になってしまって申し訳ありません。元子殿に結婚を申し込みたいのですが」
言を遮って顕光が怒鳴る。
「帝の妃に、なんということを。娘を軽んじる真似は、許さない。即刻去れ!」
顕光は身体を震わせていた。
「お言葉ですが、帝はもう崩御されました。それに、私は元子殿を軽んじたつもりは・・・・・・」
「とっとと去れ! さもなくば追い出してやる」
顕光は下人を呼ぼうとした。頼定は説得することを諦め、その場から立ち去った。
翌日、顕光は元子の髪を切り、出家させた。元子は泣きながら頼定との仲を認めて欲しいと懇願していたという。
無理矢理尼にされても、元子は頼定と逢うことをやめなかった。頼定の方も、髪を失った元子を捨てるようなことはしなかった。
思いあまった顕光は、
「どこへなりとも行ってしまえ!」
と元子を邸から追い出した。元子は頼定の元へと走った。元子初めての、父への反抗だった。
元子は帝とのあいだに、皇子を儲けることは出来なかった。顕光が最後に期待を寄せたのが、末の妹の延子だった。
元子が頼定の元に走った頃、顕光はときの帝の第一皇子を延子の婿にした。帝は元子の夫・先帝のいとこだった。
延子は向かい合った者が気後れしてしまうような美人で、歌才にも恵まれていた。元子とはまた違う魅力の持ち主であった。人々はあの愚鈍な右大臣の娘にしては、それぞれ器量に優れていることだ、とささやきあったという。
延子は皇子とのあいだに子どもを産んだ。顕光は孫を可愛がり、皇子ともども手厚くもてなした。
「さあさあ、ここにお馬さんがおりますよ」
「わー」
顕光は手を床について、馬に扮した。宮たちは大はしゃぎである。
「僕が一番だ」
「えー、ずるいー」
「順番に、順番に」
顕光がなだめる。
そのようすを見て、延子と敦明親王が笑い合う。それを目にした顕光が顔をほころばせる。
(延子は婿殿にこの上なく愛されている)
顕光はうんうん、と首を縦に振った。ほっとして、涙ぐみそうになるのをこらえる。
(こんなことで涙が出るなんて。私も年をとったということか)
顕光は、別の形で家族の団らんを手に入れたのだった。
延子の夫・敦明親王はやがて東宮となった。延子が近い将来、后となるのも夢ではないように思われた。少なくとも、顕光はそう信じていた。
しかし、敦明親王は周囲の圧力に負けて東宮位を辞退した。東宮に立てられてから、一年半ほどしか経っていなかった。東宮位を辞退しただけでなく、敦明親王はときの権力者藤原道長に婿とられた。道長は贅を尽くして敦明親王をもてなした。敦明親王はしまいに堀川邸には寄りつかなくなり、延子は捨てられたも同然だった。
娘を想う顕光は憤慨はするものの、道長に抗議することは出来なかった。そんなことをするほど顕光は若くもなく、また分別がつかないわけでもなかった。顕光はこのとき七十三歳だった。勇気も無謀さも、とうの昔に忘れ去っていたのである。
顕光は夜になると一人、声を押し殺して泣いた。右大臣の地位にありながら、彼は孤独だった。
そのうちに延子は病気がちになり、儚くも命を落としてしまった。顕光の悲嘆はすさまじかった。延子の魂を返したまえ、返したまえと、うわごとのように繰り返していた。
この頃、顕光の後妻量子のはからいで、顕光は頼定・元子夫妻と同居していた。この後妻は藤原道兼の未亡人で、顕光とはいとこにあたる。思慮深く、愛情深い女性であった。
頑迷なところのある顕光は、元子のことを許しつつもそれを態度に出すことは出来なかった。元子と接するときはいつも仏頂面で、口数も少なかった。それに頼定は反感を抱いていた。
延子が亡くなった日、頼定と元子とその子どもたちはそっと堀川の邸を出た。穢れに触れることを避けたかった、頼定の判断だった。そこには日頃の顕光の行いも、もちろん関係していた。
顕光が気がついたとき、元子たちの住む空間はもぬけの空だった。顕光はこの日、娘を二人失った。
それでも量子からの説得などもあったのだろう、翌年には頼定と元子一家はまた堀川邸に舞い戻った。延子の死が堪えたのか、顕光も今回ばかりは元子たちを手厚く迎え入れた。量子はそれを見て安堵するのだった。
ぎこちないながらも、堀川邸は元の活気を取り戻そうとしていた。だが、悲劇はくりかえされた。
頼定が、病を得て亡くなったのだ。四十四歳だった。元子は涙を流して悲しんだ。顕光はただ呆然とするしかなかった。
ただ、顕光の脳裏に、延子の忘れ形見の宮たちの姿がちらついた。前途ある宮たちのために、この邸を縁起の悪いものにするわけにはいかない。顕光はここ堀川邸で頼定の四十九日を催すことを禁じた。
元子は父の非情なふるまいに落胆した。
頼定の死から一年も経たない頃、今度は顕光が床についた。ひどく咳き込んで、起きることすらままならない。病は日ごと重くなり、年齢的にも助かることはないように思えた。
顕光は、寝所で往事を振り返っていた。
(なぜ大切な人は私の元を去って行くのだろう……)
顕光は盛子内親王のことを思い出した。
(私には過ぎた妻だった。内親王という身分だけでも貴いのに、いつでも私を立ててくれて。優しくて、朗らかで。立派な子どもを三人も産んでくれた)
顕光は目を閉じた。
(子どもといえば、長男の重家。あれは今、どうしているのだろうか。出家したいと言い出したときには、頭ごなしに叱りつけてしまった。あれは線の細い、たおやかな子だった。今ならわかるが、たしかに俗世で生き抜くのは、大変だったかもしれない)
顕光の脳裏に、重家の容貌が浮かんだ。出家したときの、若い頃の容貌だ。顕光はその頃よりも老いた姿は、知らないのである。
(絶縁などするのではなかったな)
顕光は後悔したが、時すでに遅し、である。
(それから、次女の延子。美しく、思慮分別のある娘だった。遅くに結婚させたせいか、気位が高すぎるところがあって。婿殿とうまくやれるか、最初は心配していたものだ。それは杞憂に終わったが。延子は婿殿に愛され、子どもにも恵まれて、本当に幸せそうだった。私がふがいないばかりに辛い思いをさせ、あげく死に追いやってしまった。全くもって申し訳ない)
顕光は延子の死に顔を思い出していた。苦々しいものが口の中にひろがり、胸が苦しくなる。
顕光は目を閉じた。すると、人が走ってくる音が聞こえた。顕光が首をかすかに上げる。
そこに立っていたのは、元子だった。
「元子、どうしたんだ」
「どうしたんだ、じゃありませんわ。ここ数日、母屋がやけに静かなので、おかしいと思って女房を問い詰めたのです。こんなに身体をお悪くしているなら、私にも教えてくださいませんと。なんと水臭い」
元子の背後には、量子が立っていた。元子に自分の病状を詳しく伝えたのは、量子なのだろうな、と顕光は思った。
「それは、その……」
顕光はしどろもどろになった。床についていることを隠していたつもりはなかった。ただ、自分の過去のふるまいを振り返る中で、元子に合わせる顔がないと思ったのだ。
顕光は視線を落として考えを巡らせていた。呼吸を整えると、やがて意を決して元子に向き合った。
「元子、すまなかった。おまえには、辛くあたってばかりだった。私はねぎらいの言葉一つ、おまえにかけたことはなかったな」
「お父さま……」
顕光の目に涙が滲む。嗚咽をこらえながら、顕光は声を上げた。
「私はいつもそうだ。去っていったものを数えるばかりで、目の前にいる大切なものの存在に気づかなかった」
顕光は元子を見、次にその後ろに立っている量子を見た。元子は驚いたのか、目を丸めていた。量子は少し微笑しているように見えた。
顕光がすすり泣きを始めた。
量子が顕光のもとにかけより、なだめはじめる。
「量子……。ありがとう、こんな私に、ついてきてくれて」
量子もまたもらい泣きをはじめた。
「お礼を言うのは私の方です。私ばかりでなく、私の連れ子にまでも良くしていただいて。私、あなた様のそばにいられて、幸せでしたわ。ええ、本当に……」
最後の方は言葉にならないようすだった。
元子もそれを見て、涙ぐんだ。たしかに辛い思いもさせられた。父さえいなければ、と思うこともあった。だが、あの仕打ちも自分のことを考えてこその行動なのだと、今では受け入れられるようになった。
「お父さま、なにか、私にして欲しいことはありませんか?」
元子はつとめて明るい声を出して父に尋ねた。
「そう、だな」
顕光は目を閉じた。そしておもむろに口を開いた。
「記念樹の、百日紅が見たい」
元子は量子と顔を見合わせた。元子たちきょうだいが生まれたときに植えられた百日紅は、とうの昔に枯れていた。
「わかりました。今、枝を摘んできます」
おろおろする量子を尻目に、元子はその場から離れた。
しばらくして、元子は小さな百日紅の枝を持ってきた。
「お父さま、延子の記念樹です。赤い花が、きれいでしょう。美しく、気高かった延子を思い起こさせますね」
元子が笑いかける。わざと明るく振る舞っているのは、誰が見ても明らかだった。
「ほんとう、だな」
顕光がうっすら微笑した。
「少し疲れてしまった。そろそろ一人にしてくれないか」
顕光にそう言われた二人は、揃って寝所を後にした。
寝所を出たあとで、量子は元子に尋ねた。
「元子さん、あの百日紅は?」
「別の庭に咲いているのを摘んできました。どうしても父に見せたくて」
思わず最後に、と言いそうになったのを堪えた。だが、元子にしても、量子にしても、顕光が回復するとは信じていないのだった。
「そうだったのですか……」
量子が呟く。
「元子さん、ありがとうございます」
量子が元子に頭を下げる。
「そんな、頭を上げてください」
元子が慌てて手を横に振る。
「殿も、これで心残りはなくなったと思います。あとはもう……」
量子はそこまで言って口をつぐんだ。あとはもう思い残すことはない、そう言おうとしたのだろうな、と元子は気づいたが、口には出さなかった。代わりにこんな言葉が口をついて出た。
「私からもお礼を言わせてください」
元子が量子に向き直る。
「えっ?」
「父と添い遂げようとしてくれて、ありがとうございます」
元子が頭を下げる。今度は量子が手を横に振る番だった。
「そんな、滅相もない」
それを聞いた元子が無言で微笑みかける。量子もまた、無言でそれに応える。
二人のあいだには、顕光を通して絆が生まれていた。
その日の深夜、顕光は息を引き取った。元子と量子は、静かに顕光を看取った。顕光は安らかな顔を浮かべていた。
顕光の死から十日ばかりが経った頃、元子は邸の庭を散歩していた。記念樹のあたりを通り過ぎようとしたとき、赤いものがあることに気づいた。見れば延子の記念樹が、花をつけているのだった。
「うそ」
元子にはとても信じられなかった。
(たしかに枯れていたのに……)
赤い花を、じっと見つめる。その赤い花は、小さいながらも瑞々しく、生命力にあふれていた。
元子にはそれが、不器用だった父が最後に伝えようとした、感謝の気持ちのように思われた。
花をそっと手に包み、空を見上げる。
(お父さま、どうか安らかに)
元子の目に、涙がひとしずく流れた。
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2022-03-23
弔い酒、二つ
おどたさんにささぐ
粗末な家屋の中で、尊氏は臣下と勝利を分かち合っていた。
「そこの者、こちらへ参れ」
尊氏が、離れて座っていた武者に声をかける。
「わ、私のことですか?」
黒々とした髭をたくわえた荒武者が、おどおどしたようすで返事をする。
「そうだ、お前だ」
尊氏が満面の笑みで言う。
「此度の戦では良い働きをしてくれた。そなたの大槍を見て敵は怯んでいたぞ。酒を酌み交わそう」
「もったいなきお言葉」
荒武者がひれ伏す。
「それに、そこの」
次に尊氏は入り口近くの下座に座っていた痩せた男に声をかけた。
「斥候役のそなたが敵の陣営を正確に伝えてくれたおかげで、我が軍は勝てたのだ。そなたもこちらに参れ」
「はっ」
痩せた男は恐縮したようすで尊氏の近くにやって来た。
尊氏はこうして功のあった者たちを、身分の上下にかかわらず近くに呼び、労をねぎらったのだった。
そのようすを見ていた配下の者は士気を上げ、陣営の結束は一気に高まった。
尊氏の隣には、弟の直義がいた。
満足そうに何度もうなずき、尊氏と家臣たちのやりとりを見ていた。
それから、数十年後の二月二十六日。
尊氏は、自室で一人酒を飲んでいた。
「これは、直義の分」
盃に酒を注ぎ、一気に飲み干す。
「これは、師直の分」
同じようにして、酒をあおる。
二月二十六日は、足利直義と高師直の命日だった。
といっても二人は一緒に死んだわけではない。
師直が一族もろとも戦死した一年後に、直義は病で亡くなった。
同じ日になくなったことを毒殺だ、などと言う輩もいたが、尊氏は相手にしなかった。
「あの頃は、よかった」
老いた尊氏は遠い昔に思いを馳せる。
背負うものが少なかった当時は、好きなようにやれた。
臣下に目をかけることで、皆が私を慕ってくれた。
それを直義も温かい目で見守ってくれていた。
いや、本当にそうだろうか。
直義は、本当は辟易していたのではないか。
誰彼かまわず「ほうび」をとらせる、私に。
声をかけること以外にも、私は戦で得た報賞のほとんどを臣下に与えていた。
誰にどれぐらい与えるかを采配していたのは直義だった。
私は昔から、そういうことが苦手だった。
人や物に、順位をつけることができないのだ。
あのときも……。
直義と師直との仲に亀裂が入り、直義は私にこう問いただしたのだ。
「兄上は私と師直どちらをとるおつもりですか!」と。
私は、一瞬言葉に詰まってしまった。
「血を分けた実の弟と臣下、兄上はどちらが大事か、選べぬようだ」
挑発するような調子の声音とは裏腹に、直義は寂しげな表情をしていた。
去って行く弟を、私は追いかけることができなかった。
その頃には、背負うものが増えすぎていた。
あのとき、私が「それは直義、お前だ」と答えていたなら、事態は変わっていたのだろうか……?
そこまで考えて、尊氏はかぶりを振る。
いや、きっと……。
私には出来なかっただろう。
今さら自分の生き方を変えることは容易ではない。
直義は昔から、自分から汚れ役を買って出てくれた。
私はそれに、ずっと甘えてきたのだ。
どちらが大事か、と問われたときも、直義なら分かってくれるだろうと甘く考えていた。
それがどれほどを直義を傷つけるかなど、考えもせずに。
今のこの結果は、その報いなのだ。
尊氏はきつく目を閉じた。
直義と師直、二人の顔をなんとか思い出す。
まさか同じ日に亡くなるとは、な。
死んでからも私に選択を迫るか、直義。
尊氏はとっくりに手を伸ばし、また酒をあおりはじめた。
粗末な家屋の中で、尊氏は臣下と勝利を分かち合っていた。
「そこの者、こちらへ参れ」
尊氏が、離れて座っていた武者に声をかける。
「わ、私のことですか?」
黒々とした髭をたくわえた荒武者が、おどおどしたようすで返事をする。
「そうだ、お前だ」
尊氏が満面の笑みで言う。
「此度の戦では良い働きをしてくれた。そなたの大槍を見て敵は怯んでいたぞ。酒を酌み交わそう」
「もったいなきお言葉」
荒武者がひれ伏す。
「それに、そこの」
次に尊氏は入り口近くの下座に座っていた痩せた男に声をかけた。
「斥候役のそなたが敵の陣営を正確に伝えてくれたおかげで、我が軍は勝てたのだ。そなたもこちらに参れ」
「はっ」
痩せた男は恐縮したようすで尊氏の近くにやって来た。
尊氏はこうして功のあった者たちを、身分の上下にかかわらず近くに呼び、労をねぎらったのだった。
そのようすを見ていた配下の者は士気を上げ、陣営の結束は一気に高まった。
尊氏の隣には、弟の直義がいた。
満足そうに何度もうなずき、尊氏と家臣たちのやりとりを見ていた。
それから、数十年後の二月二十六日。
尊氏は、自室で一人酒を飲んでいた。
「これは、直義の分」
盃に酒を注ぎ、一気に飲み干す。
「これは、師直の分」
同じようにして、酒をあおる。
二月二十六日は、足利直義と高師直の命日だった。
といっても二人は一緒に死んだわけではない。
師直が一族もろとも戦死した一年後に、直義は病で亡くなった。
同じ日になくなったことを毒殺だ、などと言う輩もいたが、尊氏は相手にしなかった。
「あの頃は、よかった」
老いた尊氏は遠い昔に思いを馳せる。
背負うものが少なかった当時は、好きなようにやれた。
臣下に目をかけることで、皆が私を慕ってくれた。
それを直義も温かい目で見守ってくれていた。
いや、本当にそうだろうか。
直義は、本当は辟易していたのではないか。
誰彼かまわず「ほうび」をとらせる、私に。
声をかけること以外にも、私は戦で得た報賞のほとんどを臣下に与えていた。
誰にどれぐらい与えるかを采配していたのは直義だった。
私は昔から、そういうことが苦手だった。
人や物に、順位をつけることができないのだ。
あのときも……。
直義と師直との仲に亀裂が入り、直義は私にこう問いただしたのだ。
「兄上は私と師直どちらをとるおつもりですか!」と。
私は、一瞬言葉に詰まってしまった。
「血を分けた実の弟と臣下、兄上はどちらが大事か、選べぬようだ」
挑発するような調子の声音とは裏腹に、直義は寂しげな表情をしていた。
去って行く弟を、私は追いかけることができなかった。
その頃には、背負うものが増えすぎていた。
あのとき、私が「それは直義、お前だ」と答えていたなら、事態は変わっていたのだろうか……?
そこまで考えて、尊氏はかぶりを振る。
いや、きっと……。
私には出来なかっただろう。
今さら自分の生き方を変えることは容易ではない。
直義は昔から、自分から汚れ役を買って出てくれた。
私はそれに、ずっと甘えてきたのだ。
どちらが大事か、と問われたときも、直義なら分かってくれるだろうと甘く考えていた。
それがどれほどを直義を傷つけるかなど、考えもせずに。
今のこの結果は、その報いなのだ。
尊氏はきつく目を閉じた。
直義と師直、二人の顔をなんとか思い出す。
まさか同じ日に亡くなるとは、な。
死んでからも私に選択を迫るか、直義。
尊氏はとっくりに手を伸ばし、また酒をあおりはじめた。
2021-07-28
「一条天皇回顧と、恩返しのことー行成と俊賢ー」
なるみさんにささぐ
ーー寛弘八年八月十一日。
涼しげな風の吹く早朝、一条院に一人たたずむ男がいた。
権中納言で権皇太后大夫の藤原行成である。
(暑さが、少しやわらいだ気がする。それとも私が早い時間に来てしまっただけか)
行成は誰もいない一条院の中を見まわした。
儀式が始まる一刻(約二時間)も前から、儀式場に来ているのである。
故一条院の法事になにか不手際があってはいけないという思いからではあるが、人任せにしないところに彼の真面目さ、忠誠心の篤さがみてとれる。
一条院の仏殿には、先日供養した三体の仏像が安置してあった。
今日また新たに仏像が運び込まれるのだという。
(故院は、信心深くあらせられたからな)
意識せずに手を合わせながら、行成は述懐する。
(私にとっては、一条院自身が仏に見えたものだったが……。たいした身分でない私を、異例に抜擢してくださって。本当に良くしていただいた)
行成は居ずまいを正し、手をしっかりと合わせて念仏を唱えた。
(どうか、安らかに)
「皇太后権大夫殿、儀式はまだ始まっていませんよ」
からかうような口ぶりではあったが、声の調子には相手を包み込むような優しさがある。
「中宮権大夫殿」
行成の視線の先には権中納言で中宮権大夫の源俊賢がいた。
「早いですね」
「いやなに、あなたには負けますよ」
俊賢はそう言ってからからと笑う。
年齢は五十を超えているが、明るくはきはきと話すので歳よりも若く見える。
だが堂々とした態度は年相応であり、顔つきには威厳が感じられた。
「こんなに早くに、どうしたのです?」
俊賢が尋ねる。
「故院の法事に、なにか不手際があってはいけませんから。事前に最後の確認をしておこうと思いまして」
「そうですか。相変わらずですな。全く実直なことで」
俊賢が目尻を下げながら言う。
古くからの友人として、行成と長く親しくしてきた俊賢である。
一回り年下の行成は、息子のように感じられることもあった。
「いえ、そんなことは。故院には恩がありますから。地下の者だった私を蔵人頭に引き立てていただいて」
「そうでしたな」
俊賢がうなずく。
「故院に私を推挙してくれたのは、中宮権大夫ですよ。私は故院に対してもちろん恩義を感じていますが、貴殿に対しても感謝の気持ちを忘れたことはありません」
行成が、俊賢の目をまっすぐに見て言う。
俊賢は照れくさいのか、笑うだけである。
「あのときは本当に、ありがとうございました」
行成が頭を下げる。
「私はただ、朝廷の事を考えてあなたを推しただけですよ。あなたほどの人材が埋もれることになれば、この国にとってたいそうな痛手になると、そう考えただけのことです。別にあなたを救うためではありません」
「またそのようなことを……」
「いつも言っているでしょう。私ではなく、故院に感謝なさいと」
「もちろん私は故院に感謝しています。だが、そもそも貴殿の推挙がなければ私はこうして公卿になることも出来なかった。一体、なにを思って、どのようにして故院に私を推挙したのですか? 貴殿は私が問うてもいつもはぐらかしてばかり。そろそろ本当のことを教えてくれませんか?」
俊賢は行成の懇願にも似た問いかけに、困ったような笑いを浮かべるばかりである。
行成はそれを見て、小さくため息をつく。
「本当に、貴殿は肝心なことに関してはいつも秘密主義で。まったく、寂しい限りですよ」
行成は恨めしげに言い、俊賢の元から離れるのだった。
その場に残された俊賢は、行成の背中を見送りながら十六年前のことを思い出していた。
ーー長徳元年八月。
俊賢は、一条天皇の御前にいた。
「それで、話というのはなんだね?」
若き帝が、鷹揚に尋ねる。
俊賢は緊張で声を震わせながら、帝に話し始めた。
「私の後任のことでございます。蔵人頭には、頭の弁藤原行成を推薦したく存じます」
「蔵人頭は前蔵人頭の推挙によって任じられることもあるが……。行成か。たしかによくやってくれているが、彼では身分が低いだろう」
「たしかに頭の弁はまだ地下人です。ですが、彼には確固とした信念があります。朝廷の役に立ちたいという信念です。ものの善悪や賢愚を良く弁えた者でもあります。かような人物こそが、朝廷には必要なのであります。この者が日の目を見ないとあれば、朝廷の損失は計り知れません」
俊賢は一気にまくし立てた。
帝は、それを黙って聞いていた。
しばしの沈黙のあと、帝が口を開いた。
「わかった。その者を取り立てよう」
「はっ」
俊賢には、帝の言ったことが信じられなかった。
それでつい間の抜けた言葉が口をついて出てしまったのである。
「どうした? おまえが言い出したことだぞ」
帝が少し笑って聞き返す。
「その、まさか聞き入れられるとは思いもしなかったので……」
俊賢は、自分でも無茶なことを言っている、と思っていた。
行成が蔵人頭になるとなれば異例の出世である。
当然他の者の反感も買うだろう。
帝はそういった臣下の感情に敏感な御方である。
自分の願いが聞き入れられる見込みは低いだろうと、そう思っていたのだ。
「あの……、なぜ、でしょうか? 私の希望を聞き入れてくださったのは」
俊賢がおそるおそる尋ねる。
「お前が他人に対してそこまで必死になる姿を見るのは、初めてだからさ」
俊賢が目を見開いた。
「おまえはいつもよく気づきよく考え、よく働いてもくれる。だが私以外の他人に対してはいつも冷淡だ。そのお前が、こんなにも他人に対して一生懸命になれるなんてね。お前がここまでしたくなるほどの人物は、さぞかし立派な人間だろう。だから受け入れることにしたんだよ」
「は、はあ」
俊賢は目を丸くする。
臣下の感情に敏感な方だとは思っていたが、よくそこまで、と俊賢は感嘆した。
(なんて素晴らしい御方なのだろう。私は、この方のために生きよう。この方に、全身全霊で忠義を尽くそう)
俊賢の目には涙が浮かんでいた。
礼を言い、頭を何度も下げてから、俊賢は帝の御前を退いた。
(行成を推挙したこと。それは私の身勝手だったかもしれない)
仏殿で、俊賢は一人思いを巡らせていた。
(私は謀反人の父を持ち、不遇な環境にあった。同じように不遇な、いやもっと不運かもしれない行成殿に目がいったのは、そのためかもしれない。行成殿は名門の家系に生まれながら、父をはじめ多くの親族に先立たれていた。私はきっと、彼の中にかつての自分を見ていたのだろう。なんて自分勝手なのだ。こんなこと、恥ずかしくて誰にも言えやしない。だがそれはさておき、故院はなんて優れた御方だったのだろう。私は本当にあの方のお役に立てたのだろうか)
俊賢は伏せていた目を上げた。
視線の先には観音像があった。
観音像は優雅に微笑んでいた。
俊賢を見守っているかのように。
(故院が亡くなっても、まだ出来ることはあるはずだ)
俊賢はぎゅっと唇を結び、儀式の手順を確認しはじめた。
故院の七七日正日法事は、つつがなく終わった。
感涙にむせび泣く者がいたほど、素晴らしい儀式だった。
儀式が終わって皆が去って行ったあと、行成はまた俊賢に声をかけられた。
「どこかへ行かれるのですか?」
牛車の手配をしていたのが目に入ったらしい。
やはり目端のきくお方だな、と行成は感心した。
「故院の宮たちのところへ参るところです」
「まだ働くのですか! 働き過ぎで倒れてしまいますよ」
俊賢は仰天していた。
もう深夜になっていたから、無理もない。
「宮たちに奉仕することが、故院が最も望んでいたことであり、故院の恩に報いることだと思うのです」
俊賢は少し思案していたが、やがて口を開いた。
「いえ、故院が最も望んでいたのは、政(まつりごと)を上手くやることではなかったでしょうか」
(そうだ、そのために故院は道長とも協力したのだ。正しい政のためには臣下の力が必要だと、そう割り切られて。思うところは、たくさんあったはずだ)
「私はそうは思いません」
行成が言い返す。
「いや、しかし」
俊賢も負けていない。
二人の視線がかち合う。
その真剣なようすがおかしくて、二人は同時に吹き出した。
「人の願いは、一つや二つじゃ足りません」
行成が笑う。
「そうですね。故院もまた人であったことを忘れていました」
俊賢が言葉を重ねる。
二人は目を合わせ、互いににっと笑った。
言葉にしなくても、共有できる思いがある。
(自分に出来る、恩返しをしていこう)
二人は銘々の役割について考えながら、その場を離れた。
口元に小さく笑みを浮かべながら。
参考文献
倉本一宏 2009 御堂関白記(中)
倉本一宏 2012 権記(下) 講談社
黒板伸夫 1994 人物叢書「藤原行成」 吉川弘文館
保坂弘司 1981 大鏡 講談社
国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/ja/?_ga=2.48685475.464294693.1627459762-561591705.1627459762
のデータベース 「摂関期古記録」もすごく助かりました。
「権記」「御堂関白記」「小右記」から「行成」や「俊賢」を検索してネタを探しました(ネタ言うな)。
あとがきのようなもの
「宮たちに奉仕することが~」は実際には行成が「密かに思ったこと」として書かれています(権記)。
他にも儀式のようすを描きたい気持ちもあったのですが、力尽きました。
この日は御堂関白記ではわりとあっさり書かれてるのに、権記の記事は詳細で、行成自身が感動しているようにも見受けられます。
行成は一条天皇のことを本当に慕っていたのだなあと記事を読んで思いました。
題名を考えるのに一番苦労したかもしれません。
実は今もあまり気に入っていません。
しっくりくるのが思い浮かばないー(>_<)
ーー寛弘八年八月十一日。
涼しげな風の吹く早朝、一条院に一人たたずむ男がいた。
権中納言で権皇太后大夫の藤原行成である。
(暑さが、少しやわらいだ気がする。それとも私が早い時間に来てしまっただけか)
行成は誰もいない一条院の中を見まわした。
儀式が始まる一刻(約二時間)も前から、儀式場に来ているのである。
故一条院の法事になにか不手際があってはいけないという思いからではあるが、人任せにしないところに彼の真面目さ、忠誠心の篤さがみてとれる。
一条院の仏殿には、先日供養した三体の仏像が安置してあった。
今日また新たに仏像が運び込まれるのだという。
(故院は、信心深くあらせられたからな)
意識せずに手を合わせながら、行成は述懐する。
(私にとっては、一条院自身が仏に見えたものだったが……。たいした身分でない私を、異例に抜擢してくださって。本当に良くしていただいた)
行成は居ずまいを正し、手をしっかりと合わせて念仏を唱えた。
(どうか、安らかに)
「皇太后権大夫殿、儀式はまだ始まっていませんよ」
からかうような口ぶりではあったが、声の調子には相手を包み込むような優しさがある。
「中宮権大夫殿」
行成の視線の先には権中納言で中宮権大夫の源俊賢がいた。
「早いですね」
「いやなに、あなたには負けますよ」
俊賢はそう言ってからからと笑う。
年齢は五十を超えているが、明るくはきはきと話すので歳よりも若く見える。
だが堂々とした態度は年相応であり、顔つきには威厳が感じられた。
「こんなに早くに、どうしたのです?」
俊賢が尋ねる。
「故院の法事に、なにか不手際があってはいけませんから。事前に最後の確認をしておこうと思いまして」
「そうですか。相変わらずですな。全く実直なことで」
俊賢が目尻を下げながら言う。
古くからの友人として、行成と長く親しくしてきた俊賢である。
一回り年下の行成は、息子のように感じられることもあった。
「いえ、そんなことは。故院には恩がありますから。地下の者だった私を蔵人頭に引き立てていただいて」
「そうでしたな」
俊賢がうなずく。
「故院に私を推挙してくれたのは、中宮権大夫ですよ。私は故院に対してもちろん恩義を感じていますが、貴殿に対しても感謝の気持ちを忘れたことはありません」
行成が、俊賢の目をまっすぐに見て言う。
俊賢は照れくさいのか、笑うだけである。
「あのときは本当に、ありがとうございました」
行成が頭を下げる。
「私はただ、朝廷の事を考えてあなたを推しただけですよ。あなたほどの人材が埋もれることになれば、この国にとってたいそうな痛手になると、そう考えただけのことです。別にあなたを救うためではありません」
「またそのようなことを……」
「いつも言っているでしょう。私ではなく、故院に感謝なさいと」
「もちろん私は故院に感謝しています。だが、そもそも貴殿の推挙がなければ私はこうして公卿になることも出来なかった。一体、なにを思って、どのようにして故院に私を推挙したのですか? 貴殿は私が問うてもいつもはぐらかしてばかり。そろそろ本当のことを教えてくれませんか?」
俊賢は行成の懇願にも似た問いかけに、困ったような笑いを浮かべるばかりである。
行成はそれを見て、小さくため息をつく。
「本当に、貴殿は肝心なことに関してはいつも秘密主義で。まったく、寂しい限りですよ」
行成は恨めしげに言い、俊賢の元から離れるのだった。
その場に残された俊賢は、行成の背中を見送りながら十六年前のことを思い出していた。
ーー長徳元年八月。
俊賢は、一条天皇の御前にいた。
「それで、話というのはなんだね?」
若き帝が、鷹揚に尋ねる。
俊賢は緊張で声を震わせながら、帝に話し始めた。
「私の後任のことでございます。蔵人頭には、頭の弁藤原行成を推薦したく存じます」
「蔵人頭は前蔵人頭の推挙によって任じられることもあるが……。行成か。たしかによくやってくれているが、彼では身分が低いだろう」
「たしかに頭の弁はまだ地下人です。ですが、彼には確固とした信念があります。朝廷の役に立ちたいという信念です。ものの善悪や賢愚を良く弁えた者でもあります。かような人物こそが、朝廷には必要なのであります。この者が日の目を見ないとあれば、朝廷の損失は計り知れません」
俊賢は一気にまくし立てた。
帝は、それを黙って聞いていた。
しばしの沈黙のあと、帝が口を開いた。
「わかった。その者を取り立てよう」
「はっ」
俊賢には、帝の言ったことが信じられなかった。
それでつい間の抜けた言葉が口をついて出てしまったのである。
「どうした? おまえが言い出したことだぞ」
帝が少し笑って聞き返す。
「その、まさか聞き入れられるとは思いもしなかったので……」
俊賢は、自分でも無茶なことを言っている、と思っていた。
行成が蔵人頭になるとなれば異例の出世である。
当然他の者の反感も買うだろう。
帝はそういった臣下の感情に敏感な御方である。
自分の願いが聞き入れられる見込みは低いだろうと、そう思っていたのだ。
「あの……、なぜ、でしょうか? 私の希望を聞き入れてくださったのは」
俊賢がおそるおそる尋ねる。
「お前が他人に対してそこまで必死になる姿を見るのは、初めてだからさ」
俊賢が目を見開いた。
「おまえはいつもよく気づきよく考え、よく働いてもくれる。だが私以外の他人に対してはいつも冷淡だ。そのお前が、こんなにも他人に対して一生懸命になれるなんてね。お前がここまでしたくなるほどの人物は、さぞかし立派な人間だろう。だから受け入れることにしたんだよ」
「は、はあ」
俊賢は目を丸くする。
臣下の感情に敏感な方だとは思っていたが、よくそこまで、と俊賢は感嘆した。
(なんて素晴らしい御方なのだろう。私は、この方のために生きよう。この方に、全身全霊で忠義を尽くそう)
俊賢の目には涙が浮かんでいた。
礼を言い、頭を何度も下げてから、俊賢は帝の御前を退いた。
(行成を推挙したこと。それは私の身勝手だったかもしれない)
仏殿で、俊賢は一人思いを巡らせていた。
(私は謀反人の父を持ち、不遇な環境にあった。同じように不遇な、いやもっと不運かもしれない行成殿に目がいったのは、そのためかもしれない。行成殿は名門の家系に生まれながら、父をはじめ多くの親族に先立たれていた。私はきっと、彼の中にかつての自分を見ていたのだろう。なんて自分勝手なのだ。こんなこと、恥ずかしくて誰にも言えやしない。だがそれはさておき、故院はなんて優れた御方だったのだろう。私は本当にあの方のお役に立てたのだろうか)
俊賢は伏せていた目を上げた。
視線の先には観音像があった。
観音像は優雅に微笑んでいた。
俊賢を見守っているかのように。
(故院が亡くなっても、まだ出来ることはあるはずだ)
俊賢はぎゅっと唇を結び、儀式の手順を確認しはじめた。
故院の七七日正日法事は、つつがなく終わった。
感涙にむせび泣く者がいたほど、素晴らしい儀式だった。
儀式が終わって皆が去って行ったあと、行成はまた俊賢に声をかけられた。
「どこかへ行かれるのですか?」
牛車の手配をしていたのが目に入ったらしい。
やはり目端のきくお方だな、と行成は感心した。
「故院の宮たちのところへ参るところです」
「まだ働くのですか! 働き過ぎで倒れてしまいますよ」
俊賢は仰天していた。
もう深夜になっていたから、無理もない。
「宮たちに奉仕することが、故院が最も望んでいたことであり、故院の恩に報いることだと思うのです」
俊賢は少し思案していたが、やがて口を開いた。
「いえ、故院が最も望んでいたのは、政(まつりごと)を上手くやることではなかったでしょうか」
(そうだ、そのために故院は道長とも協力したのだ。正しい政のためには臣下の力が必要だと、そう割り切られて。思うところは、たくさんあったはずだ)
「私はそうは思いません」
行成が言い返す。
「いや、しかし」
俊賢も負けていない。
二人の視線がかち合う。
その真剣なようすがおかしくて、二人は同時に吹き出した。
「人の願いは、一つや二つじゃ足りません」
行成が笑う。
「そうですね。故院もまた人であったことを忘れていました」
俊賢が言葉を重ねる。
二人は目を合わせ、互いににっと笑った。
言葉にしなくても、共有できる思いがある。
(自分に出来る、恩返しをしていこう)
二人は銘々の役割について考えながら、その場を離れた。
口元に小さく笑みを浮かべながら。
参考文献
倉本一宏 2009 御堂関白記(中)
倉本一宏 2012 権記(下) 講談社
黒板伸夫 1994 人物叢書「藤原行成」 吉川弘文館
保坂弘司 1981 大鏡 講談社
国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/ja/?_ga=2.48685475.464294693.1627459762-561591705.1627459762
のデータベース 「摂関期古記録」もすごく助かりました。
「権記」「御堂関白記」「小右記」から「行成」や「俊賢」を検索してネタを探しました(ネタ言うな)。
あとがきのようなもの
「宮たちに奉仕することが~」は実際には行成が「密かに思ったこと」として書かれています(権記)。
他にも儀式のようすを描きたい気持ちもあったのですが、力尽きました。
この日は御堂関白記ではわりとあっさり書かれてるのに、権記の記事は詳細で、行成自身が感動しているようにも見受けられます。
行成は一条天皇のことを本当に慕っていたのだなあと記事を読んで思いました。
題名を考えるのに一番苦労したかもしれません。
実は今もあまり気に入っていません。
しっくりくるのが思い浮かばないー(>_<)
2021-07-01
妊娠しました
妊娠しました。
ずっと不妊治療をして、ようやく授かりました。
とても嬉しいです
不妊治療の詳細を書いておきます。
私自身、治療中は他の方の体験記などにとても助けられたので。
もちろんデリケートな話題ですし、見たくない方もいると思います。
妊娠検査薬のフライング画像も載せていますし。
それでも良いという方は「続きを読む」をクリックしてください。
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2021-05-22
占いの通信講座を修了しました
ルネ・ヴァン・ダール研究所
https://www.rene-v.com/index.html
さんの通信教育を修了しました。
西洋占星術の初級講座です。
以前からきちんと学びたい、西洋占星術を体系的に理解したい、という気持ちはあったのですが、受講料がネックで足踏みしていました。
去年定額給付金が入ったことで、思い切って受講することにしました。
通学はとても出来ないので(田舎住みのため)、通信講座があって助かりました。
自分のペースで出来るのも良かったです。
最後の方の課題提出とかはけっこうギリギリでしたが、期限内に修了することが出来ました。
中級の方をすぐに受講するかは迷い中です。
いずれ受講するとは思うのですが、今はちょっと先の見通しが立たなくて。
不妊治療中で、どれぐらい一日に時間がさけられるかとかが、わからないのですよね。
期限内に修了することが出来るか不安で。
まあ、これに関してはもう少し考えます。
今後は占星術の知識を創作に生かす、あるいはメール鑑定をする、ということが出来たらなあと考えています。
仕事にするなら、中級以上は必ず修了したいところですが。
不妊治療で仕事を減らさざるおえず、それで副業として占いが出来ないか、と考えてもいました。
今はココナラといったサービスもあるようですし。
まあ、それはもっと勉強して、経験も積んでからでないと難しいでしょうけれどね。
今まで書いていた占い記事ですが、全部消しました。
(苦労して書いた記事なので消すのは忍びなく、実際には下書き状態で保存してありますが)
占いの講座を修了したからには、中途半端なことはしたくないな、と。
もともと本に書かれていたことを自分なりにまとめたり、考察したりしていただけのものですし。
なんか、占いのサイト?掲示板?にリンクだか転載だかされてるみたいですけれどね(苦笑)。
しばらく占いの記事を書くことはないと思います
(自分なりに西洋占星術を習得できたと思ったらまた書くかもしれません)。
今まで占い記事を見に訪問していただいた方、どうもありがとうございました。
つたない記事を見せてしまって恥ずかしい気持ちもありますが、読んでいただいたことはとてもうれしいです。
https://www.rene-v.com/index.html
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西洋占星術の初級講座です。
以前からきちんと学びたい、西洋占星術を体系的に理解したい、という気持ちはあったのですが、受講料がネックで足踏みしていました。
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通学はとても出来ないので(田舎住みのため)、通信講座があって助かりました。
自分のペースで出来るのも良かったです。
最後の方の課題提出とかはけっこうギリギリでしたが、期限内に修了することが出来ました。
中級の方をすぐに受講するかは迷い中です。
いずれ受講するとは思うのですが、今はちょっと先の見通しが立たなくて。
不妊治療中で、どれぐらい一日に時間がさけられるかとかが、わからないのですよね。
期限内に修了することが出来るか不安で。
まあ、これに関してはもう少し考えます。
今後は占星術の知識を創作に生かす、あるいはメール鑑定をする、ということが出来たらなあと考えています。
仕事にするなら、中級以上は必ず修了したいところですが。
不妊治療で仕事を減らさざるおえず、それで副業として占いが出来ないか、と考えてもいました。
今はココナラといったサービスもあるようですし。
まあ、それはもっと勉強して、経験も積んでからでないと難しいでしょうけれどね。
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もともと本に書かれていたことを自分なりにまとめたり、考察したりしていただけのものですし。
なんか、占いのサイト?掲示板?にリンクだか転載だかされてるみたいですけれどね(苦笑)。
しばらく占いの記事を書くことはないと思います
(自分なりに西洋占星術を習得できたと思ったらまた書くかもしれません)。
今まで占い記事を見に訪問していただいた方、どうもありがとうございました。
つたない記事を見せてしまって恥ずかしい気持ちもありますが、読んでいただいたことはとてもうれしいです。