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2020-03-10

今鏡マンスリー「藤原延子」「正子内親王」 

ある秋の麗景殿。

「あなたの箏の琴には、人の心を和ませる力があるね」
脇息に肘をついて、主上はそう仰せになられた。
愛おしげに、目を細めながら。
柔らかくも熱のこもったまなざし。
心臓が早がけするのを感じながらも、私は心を落ち着けて答える。
「養母(はは)が熱心に教えてくれましたの」
「異母姉上(あねうえ)が?」
主上はそのままの姿勢で、目線だけを私に合わせた。
「ええ、それはもう熱心に。養母上は、私があなたさまの前で箏の琴を弾く未来を、予見していたのかもしれませんね」
私はにっこりと、意味ありげに微笑した。
主上は眉を上げて、驚いたような顔をしていた。
興味を持っていただくことに、成功したようだ。
私はそっと胸をなで下ろした。
だが次の瞬間、それは打ち砕かれた。
「女御」
「なんですか?」
私は悠然と微笑んだ。
「そんなに、肩肘をはらないで」
「えっ……?」
私は言葉を失った。
「そんな、手練手管を弄すようなこと、やらなくていい」
私は青ざめた。
失敗した、と思った。
「誰かに言い含められたのだろうが、そんな恋の上手のような真似事をしなくても、私は貴方を見限ったりはしないよ」
「あっ……」
思わず声が漏れてしまった。
すべてお見通し、ということだろうか。
私はたじろいだ。

主上の元に上がるとき、私は確かに女房たちから言い含められたのだ。
「主上はすでに四人の妃を持った身。並大抵の女には興味を惹かれないでしょう。ここは一つ、恋の上手を気取って主上の御心をなんとしても掴み取るのです」と。
私はそれになんの抵抗もなかった。
主上の寵を得ること。
それが養母上の意に沿うことなら、なんとしても叶えたいと思った。
けれど、主上の元に入侍して、私は戸惑った。
主上に、心を奪われてしまったのだ。
朗らかで優しく、聡明なこのお方に。


私が一言も発せずにいると、主上はこう呟いた。
「本当の貴方は、可憐な少女のような人だと思うよ。違うかい?」
優しく主上に尋ねられると、私は泣きそうになった。
「あの……。私はずっと養母上に憧れていたんです。あのような凛とした女性になりたいとも思っていた。それに、養母上を喜ばせたい気持ちもあって……」
たどたどしい声になってしまった。
これでは子どものようだ。
私は自分が恥ずかしくなった。
「異母姉上と貴方は、別の人間だよ」
頬にあたたかいものが触れた。
主上の手だった。
「私の前では強がらなくていい。本当の、あなたを見せて。ね?」
私はこくん、とうなずいた。


私は先々帝一条天皇の娘、脩子内親王の養女として育った。
私の母方の祖父が、お養母さま(おかあさま)の叔父だった縁で。
お養母上さまは聡明で、誰に対しても物怖じしない、芯のある女性だった。
そのお養母さまに、私はずっとこう言われてきた。
「強くありなさい。誰かの庇護をうけずとも、生きていけるように」
じっと目を見つめて厳かに言われると、必ずそうしなければならない気がした。
けれど心のどこかで、それはお養母さまの立場だからこそ言えることのような気もしていた。
准三宮の内親王。
今上帝からもただ一人の姉として一目置かれる、唯一無二の女性の言葉だとも。
それでも、私はお養母さまに反発することはなかった。
お養母さまは天女のように美しく、賢く、私の憧れそのものだったから。


私は主上のお言葉に甘えた。
一品宮内親王養女でも、麗景殿女御でもないただの女として、主上のお側に侍った。
それは本当に、夢のような時間だった。
主上が、病に倒れられるまでは。


主上が病に臥してから、私は見舞いに行くことが出来なかった。
愛する人の苦しむさまを直視する勇気がなかったのだ。
けれど、「もう長くないのでどうか来てほしい」という手紙をもらったとき、私は覚悟を決めた。
お腹の子供のためにも。
私は身籠っていた。

「女御」
か細く呟いたその人は、見る影もなくやせ衰えていた。
涙がとうとうと流れた。
差し出された手を握る。
「私がいなくても、あなたは強く生きなさい。お腹の子を、頼んだよ」
とぎれとぎれに言って、手を握りかえされた。
「はい……」
なんとかそう返事をした。
「主上はお疲れです。そろそろお引き取り下さい」
医師(くすし)にそう言われて、私は退出した。
それから一月も経たずに、主上は崩御した。

その後失意の日々を過ごしながらも、やがて私は子を産んだ。
生まれた子が皇子でなかったことを父は残念がったが、私はむしろほっとしていた。
女の子なら、自分の手元における。
あの方の忘れ形見を遠くにやることは、どうしてもできない。


幼い我が子に、私はある日こう聞かれた。
「私が皇子だった方が、お母さまは幸せだった?」
心ない人間に何か言われたのだろう。
私は思わず娘を抱きしめた。
「あなたが男であったとしても、女であったとしても、なにも変わりません。あなたは私の、愛しいお子ですよ」
「よかった」
腕の中から、安堵の声が聞こえた。
それを聞いて私は思った。
私は強い妻にはなれなかった。
けれど、強い母になることはまだ手遅れではないはずだ、と。


娘・正子内親王は健やかに成長し、賀茂斎院に選ばれた。
旅立つ娘を、私はお養母上さまの言葉で見送った。
「強くありなさい。誰にも歪められず、ただ真っすぐに」
「はい」
力強い声が返ってきた。
私の目を、まっすぐにも見つめてくる。
お養母様のような目だと、私は思った。



******
副題は「宮家の女三代」です。
脩子内親王はほとんど登場させられなかったけど(^^;)

主上→後朱雀天皇です
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2019-10-21

内緒の進講会

高橋悠さんにささぐ

「それで中宮さま、お話というのは……?」
中宮さまから直々にお話があるというので参上したのに、中宮さまはなにも仰らない。
他の女房たちは、全員遠ざけられている。
一体何ごとだろう。
私はまだ少女の面影のある年若い中宮、藤原彰子を見つめた。

中宮さまは頬をぱっと赤らめてこう仰る。
「その……。紫式部、お前に頼みごとがあるの」
「頼みごと、でございますか」
女房に対して主(あるじ)が命令ではなく、頼みごと、とは。
ますます何ごとであろう。
「私に、漢詩を教えて欲しいの」
「漢詩ですか? 中宮さまも、今流行している漢詩遊びが気になるのですね。かしこまりました。どの漢詩にいたしましょうか。華やかで文化的な漢詩がよろしいですよね、それなら……」
「そうじゃないわ」
そこで中宮さまに言を遮られた。
「そうじゃない、と仰いますと?」
私は少し戸惑って聞き返した。
中宮さまは、普段はこのようにはっきりとはものを仰せにならない。
なにか燗に障ることを言ってしまっただろうか。
「私が教えて欲しいのは、そういう華やかな漢詩ではなくて、その……」
中宮さまは何やら恥ずかしがっていらっしゃる。
ここは女房である私が上手く察しなくは。
考えを巡らすものの、答えにはたどり着けない。
「中宮さまは、なぜ漢詩を学びたいと思われたのですか?」
順を追って聞いていこう。
「先日、主上が源氏物語を見てこう言ったでしょう。『この作者は日本の正史を読んでいるね。実に漢文の素養がありそうだ』って」
「はい、それがどうかされましたか?」
「その……。主上は漢詩がお好きでいらっしゃるわ。でも、私は漢詩を読むことが出来ない。読めるようになったとしても、私には内容が難しくて、理解は出来ないものだと思っていたわ。けれど源氏物語なら私も読める。だから……」
そうか、そういうことか。
私は合点(がてん)した。
「中宮さまは、主上に近づきたいのですね」
私は柔らかく微笑んでみせた。
中宮さまは少し不思議そうな顔をなさっている。
「私の書いた源氏物語には、たしかに漢文の影響があると思います。主上は漢文がお得意でいらっしゃいますから、それに気づかれたのでしょう。漢文は難しいものだと思われていた中宮さまも、普段自分の読んでいる物語にその素地があるのなら自分にも理解できるのではないか、と、そう思われたのですね」
「そ、そうね」
中宮さまは恥ずかしげにうつむいていらっしゃる。
上等な衣裳をまとい、何十人という女房にかしづかれている、ここ後宮の女主(おんなあるじ)。
その女主は、まだ幼さの残る年若い女性だ。
私は中宮さまをお可愛らしい、と思った。
こんな言い方は不遜だけれど、私はこの女性をみると庇護欲をそそられる。
守ってあげたいと、そう思うのだ。
「でしたら新楽符にしましょう。この作品は長恨歌で有名な白楽天の作品ですが、内容は文学とはほど遠い政治的なものとなっています。ついてこれますか? 私、学問にかけては厳しいですよ?」
冗談めかして尋ねる。
中宮さまが「はい」と頷かれる。
本当に真剣な表情だ。
私は中宮さまが愛しくさえ感じられた。
なんて純粋で、健気なのだろう。
幸せになって欲しい、と思う。
それは主人に対すると真心というよりは、娘に対して抱く愛情のようなものだ。
「では教材を準備しておきますね。都合がつくようでしたら、明日から始めましょう」
「紫式部。このことは主上や、お父さまには言わないで欲しいの」
「お父さまにも?」
「ええ、このことを知ったら、きっと父のことだから大仰にするわ。主上にもお伝えになるかもしれない」
「わかりました。内密にお教えしましょう」
私はにっこりと微笑んだ。

「進講会」はそれから二年あまりも続いた。
そのうちにそれは中宮さまのお父上や主上の耳にも入った。
お父上の道長さまは、「これで主上の気がひける」とでも思ったのだろうか、中宮さまの思っていたとおりそのことを触れ回った。
豪華な写本を作って、中宮さまに献上したりもしていた。
私はそれを知って、殿方というのはなんて無神経なことをするのだろう、と思った。
中宮さまは表面上はお喜びになっていたけれど、内心では心外なこととお思いになっていたはずだ。
私は、せめて主上には中宮さまの想いが正しく伝わって欲しいと思った。
中宮さまのひたむきな求道心の、原動力となっているもの。
その透明で純粋な真水(まみず)のような想いが、媚びや自分の気をひくためのものではないと、主上には理解してほしいと思った。


   参考文献
朧谷寿 2018 「藤原彰子ー天下第一の母ー」 ミネルヴァ書房
山本淳子 2007 「源氏物語の時代ー一条天皇と后たちの物語ー」 朝日新聞出版

2019-06-04

氷の調べ7

 基明が、茅子を優しく押し倒す。茅子が怪我をしないように、茅子の腰を支えながら。茅子はぎこちないながらも、それに応えようとする。
 基明の唇が、茅子の肌をくすぐる。茅子は初めての共寝で緊張していたが、基明の優しい愛撫に、緊張は次第にほどけていった。
 基明は茅子の手を握り、口寄せた。
「美しい手だ」
「そんな……。傷だらけのこんな指、見ないで下さい」
「いいや、美しいよ。習練を重ねたものは、見目がどうであれ、どんなものでも美しい」
 基明の言葉に、茅子は照れて赤面してしまう。
 二人の視線が合わさった。茅子の身体に、基明が覆い被さる。
「怖がらないで。大丈夫だから」
 きつく目を閉じた茅子に、基明がささやく。その声の調子が本当に優しかったので、茅子は安心して身体を楽にすることができた。
 一連の行為を、茅子は波のようだと思った。最初はほんのさざ波だったものが、次第にとてつもなく大きな、激しい荒波となって自身の身体を打ち付ける。その波が激しくなればなるほど、基明を感じることが出来る。基明の優しさ、敬意、そして愛情を、身体の深いところで。
 波がおさまってしばらくした頃、茅子が口を開いた。
「伴奏して下さったときに使っていた楽器は鬼黒だとは思えませんでした。だから私、琵琶の弾き手が基明さまだとは気づかなくて」
「鬼黒は左大臣家に伝わる楽器だから。主に観賞用で、私は父上に言われたときにしか使わないんだ。見てくれはいいけれど、楽器の音はたいしたことがないだろう?」
「ええ、そう、ですね」
 茅子が遠慮がちに言う。
「そういえば、名前を聞いていなかったね。名は何というんだい?」
「女房名は『ひさめ』です」
「ひさめ。氷の雨と書く氷雨かい?」
「はい」
 茅子がおずおずと言うと、基明は少し笑ってこう言った。
「あなたらしい名前だ。初めてあなたの演奏を聴いたとき、なんて冷たい、厳しい演奏だ、と思ったものさ」
「そんな……」
 茅子は目を伏せる。
「あれは確か、私が熊野詣から帰った日のことだったと気がする。この邸にこんな琵琶の名手がいただろうかと、不思議でしょうがなかったよ」
「そうでしたの……」
「そういえば、聴いたことのない曲をあなたは弾いていたね。あれは秘曲?」
「そうです。『氷泉』といいます」
「氷泉。氷の泉。確かにあの演奏は湖に張っている氷のように冷たくて、鋭い調べだったね」
「はい……。でも、私はきっともう弾けません」
「なぜ?」
 基明が心底不思議そうに尋ねる。
「人の温かみを、知ってしまったから。だからあの凍てついた、氷柱(ひようちゆう)のように鋭い調べを奏でることは、きっともう出来ないのです。

 茅子が基明の目を見る。
 基明が、愛おしそうに茅子の髪をなでる。幸福なまどろみの中に、二人はいた。
「女房名ではない、あなたの本当の名は?」
「茅子、と申します」
「茅子。秋らしい名だ。秋は私の一番好きな季節だ」
「そうですか。私も季節の中では、秋が一番好きです」
「そう。なんだかうれしいな」
 基明が笑う。少年のような顔をして。
「直に秋がやって来る。秋が来て、冬が来る前には、私はあなたを妻として迎えたい」
「基明さま、そんな。こんなものの数にも入らないような女を、妻に、などと……」
「私はあなたと、あなたの音楽と共に生きたいんだ」
 基明の、真剣な目。茅子は直視することが出来ずに、目をそらしてしまった。
「周りが何というか」
「説得してみせるよ。それに、きっと穏子も応援してくれる」
「穏子さまが?」
(そういえば、穏子さまは一体どういうつもりで私と基明さまを引き合わせたのだろう)
「あの子は后がねとして、両親から厳しく育てられていてね。辛いことがあると、よく私に泣きつきにきていた。そのためか、今も兄離れが出来ていないんだな。さっきもこう言われたよ。『お兄さまの幸せが、私の幸せです。どうか幸せに、なって下さい』ってね。全く、大げさだよな」
 基明が快活に笑う。
「今夜の交代劇は、穏子さまが提案されたのですか?」
「? そうだよ。だって私は琵琶の使い手の正体があなただとは知らなかったんだから」
「そう、ですか」
 茅子はそれっきりなにも言わなかった。ただずっと基明の肩に寄り添っていた。
 しばらくしてから、基明が言葉を発した。
「あれ、もう眠ってしまったのかな。大人びているけれども、まだ子どもなんだな」
 そう言って、基明は大きな手で茅子の頭をなでた。満足げな笑みと共に。

 翌朝、基明が目覚めると、そこに茅子の姿はなかった。
 基明が茅子の名を呼ぶ。だが、呼びかけの声は局内に空しく響き渡るばかり。基明は途方に暮れた。
 邸の者総出で探したが、茅子は見つからなかった。
 
 茅子は琵琶だけを持って左大臣家を出、そのまま消息を絶った。
 右大臣家にも戻らなかったという。

参考文献
岸辺成雄・池田弥三郎・郡司正勝(監)1990 日本の伝統音楽Ⅰ総論篇 筑摩書房
角田文衛(監)2012 平安時代史事典(上)(下) 角川学芸出版

参考サイト
雅楽 GAGAKU|文化デジタルライブラリー
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc22/index.html6

*****

ちなみにウェブコバルトには今回の賞の選評なども載っていました。
その中に
「『はじめての夜というより“最後の夜”じゃないか?』と思えるものがあったり」
という一文があり、この作品がそうかも、とも思いました(^_^;

選評のページ→http://cobalt.shueisha.co.jp/contents/first_night_result
2019-06-04

氷の調べ6

明くる日、穏子は基明の元を訪れていた。
「それで、昨日の犯人は見つかりましたの?」
「犯人?」
「昨日の夜、血相を変えて琵琶の弾き手を探していたではありませんか。私はてっきり、琵琶の主の粗相をお兄さまが怒っていらっしゃるものだとばかり」
「おかしなことを言うやつだな。あれは琵琶の弾き手が心配になって、それで大きな声を出してしまったんだよ」
「心配に? それは、どういうことですの」
「弦が濡れるような音がしたんだ。もしかして、弾き手が泣いているのではないかと、そう思ったのさ」
「……まるでお兄さまは、琵琶の弾き手に恋をしていらっしゃるようね。顔も知らない相手のことが心配、だなんて」
「恋? まあ、もしかしたらそうかもしれないな。あの琵琶に、私はどうしようもなく惹かれている。こんな気持ちは生まれて初めてだ。あの琵琶の主が私の妻だったら、こんなに幸せなことはないだろうなあ」
「……そんなことって」
 穏子が小声で言う。
「何か言ったか?」
「いいえ、何も」
 穏子はこわばった笑顔で基明に笑いかけ、
「失礼いたします」
 と言ってその場を去った。

 同じ日の夜、茅子が荷造りを終える頃に、穏子が局にやって来た。
「先生、今よろしいでしょうか」
「どうぞ」
 穏子が局に入ってくる。すぐに片付けられた局内に気づいたようだ。
「本当に行ってしまわれるのですね」
 か細い声で穏子が呟く。
「はい」
 茅子は頷く。茅子の決心は鈍らなさそうだ。それを見て取った穏子は、気を取り直すかのように、明るくこう提案した。
「最後に、先生の琵琶をお聴かせ願えませんか?」
 少し間があった後で、茅子は返事をした。
「はい。わかりました」
 茅子は琵琶を奏でた。この邸でのことを思い出しながら。
「本当に、素晴らしい音色」
 穏子がうっとりとした声を出す。何曲か弾いた後、穏子は
「お手水(ちようず)に行って参ります」
 と言って局を下がった。
(なんだか手が震えていたような気がするのだけれど、気のせいかしら……?)
 しばらくしてから、戸を開ける音がした。茅子が顔を上げると、そこに立っていたのは穏子ではなく、基明だった。
(えっ、どういうこと)
 茅子は混乱した。
「あなただったのですね」
 基明が、喜びを隠しきれない、といったようすで茅子に尋ねる。
「いいえ、人違いです」
 つかつかと基明は茅子の元へと行き、その場に座り込む。
 茅子が呆気にとられていると、茅子の手をとって自分の手とこすり合わせた。
「この指のすり減り方。激しい撥捌きをしている、何よりの証拠だ。私の想い人はあなたで間違いない」
「想い人、ですか」
 茅子はまだ状況を飲み込めないでいた。
「穏子に言われて気づいた。私はあなたの演奏に、恋をしていた」
「それはあくまでも、演奏に、でしょう」
「いいや、違う。あなたの音楽は、あなたそのものだ。だからあなたの演奏への恋は、あなた自身への恋でもあるんだ」
「仰っていることがよくわかりません」
 茅子は顔を背ける。基明の言葉に喜んでしまったことを、悟られないために。
「いいや、わかるはずだよ。私たちは、音楽を通してあんなにたくさんの時間を共有したじゃないか」
「それは……」
 茅子が言葉に詰まる。基明が、じっと茅子の目を見る。茅子は目がそらせない。
(全てを見透かされているかのような、透明な瞳。そうね、きっと私の方もずっと恋をしていたんだわ)
 茅子は握られていた手に、もう一方の手を重ねた。
 基明の手が茅子の頬をさする。
「愛しい人。ここは私に、全て任せて」
 基明は耳元でそうささやいて、茅子に口づけをした。
 燈台の灯りが消される。
2019-06-04

氷の調べ5

 だが、平穏な日々はそう長くは続かなかった。
 その日は、珍しく琵琶の使い手の方から曲を弾いてきた。茅子がそれに合わせて演奏をする。
(悪くないものね。相手に合わせるというのも)
 茅子はそう思いながら琵琶を弾いた。三曲目の曲目は、「胡蝶」だった。
(これは……。父の好きだった曲だわ。父の琵琶に合わせて、私は童(わらわ)舞(まい)を踊っていた。今考えればとても下手くそだったと思うけれど、父は「上手だ、上手だ」と言ってくれて。それが嬉しくて私は飛び跳ねるように踊って……。なんて懐かしい)
 茅子は述懐する。すると、涙がしたたって弦の上にこぼれた。濁った音が出る。
(いけない、いけない)
 撥を打つ手を止めて、茅子は涙を拭く。
 そのとき、邸の対の屋の灯りが点った。
 何事、と茅子が思っていると、基明の声が聞こえた。
「琵琶の弾き手は、誰だ」
 (うそ、基明さまだったの)
 茅子は驚き、咄嗟に琵琶を隠した。
「何ごとですか」
 基明付きの女房が尋ねる。
「さっきまで、琵琶を弾いていた者を探している」
「はあ」
 女房は気のない返事をする。夜中にたたき起こされて、少し不満なのだろう。
「探すのは明日でも」
「いや、今知りたいのだ」
 基明は自分で灯りを持ち、廊下を歩きはじめた。
(こっちに、来ちゃう)
 茅子はどうすることも出来ずに、あたふたと局内を歩き始めた。
 すると、声が聞こえた。
「先生、開けてください」
 茅子はわけがわからないながらも、ええいままよ、と戸を開けた。立っていたのは、穏子だった。
「穏子さま、どうして」
「とにかく、私の局に来て下さい。ねっ」
 穏子が茅子の手を引っ張る。いつになく強い調子だった。
 穏子の局に入ると、穏子は開口一番こう言った。
「私といたことにしましょう」
「えっ?」
「お兄さまが来たら、私がそう言います。だから先生もそれに合わせて話をして下さい」
「それは、どういう」
「お兄さまに咎められたくはないでしょう?」
「そ、それはまあ」
「わかったなら私の言うとおりにして下さい。お兄さまは自分がこうと決めたら譲らないところがあって。今夜もきっと、犯人が見つかるまでずっと探すおつもりですわ」
「は、はあ」
 茅子は状況がよく飲み込めないながらも、穏子に従った。
 やがて基明が穏子の局にやって来た。
「琵琶を弾いていた者を知らないか?」
 基明が穏子に尋ねる。
「知りませんわ」
 穏子が首を振る。
「そういえば、お前に琵琶を教えている先生がいたな。その先生の局はどこだ?」
「先生なら、さっきまで私とおしゃべりをしていました。ねっ」
 穏子が茅子の方を見る。少し頬を引きつらせて。
 基明はこのときになってやっと茅子の存在に気づいたようである。
「これは失礼しました。このような無礼を働いてしまい、申し訳ありません」
 基明が茅子に対して頭を下げる。
「いいえ、そんな」
 頭を上げて下さい、と言おうとしたのを、穏子が遮った。
「本当に無礼ですわ。楽器の先生ともあろう方に対して。わかったなら早く出て行って下さい」
「あ、ああ」
 穏子が基明を追い出そうとして手を引っ張る。二人の手が触れるのを見て、なぜだか茅子の胸は痛んだ。
 基明が局を出てしばらくしてから、穏子が口を開いた。
「危ないところでしたわね」
「ありがとうございました」
 茅子が手を床について頭を下げる。
「でも、どうして?」
 顔をあげた茅子が尋ねる。聞きたいことはたくさんあったが、今はそれしか言葉が出てこない。
「私、先生とお兄さまが毎夜のごとく合奏をしているのに、気づいていたの」
「そう、でしたか」
 茅子は力なく言葉を洩らした。
「初めは気が気でなかったのよ。音楽に対してはなみなみならないこだわりを持つお兄さまに、合いの手のような合奏をさせるだなんて、って」
 穏子は少し笑っている。だが、それは決してせせら笑いの類いではない。本当にお育ちがいいのだな、と茅子はこんな場面だというのに感じいってしまった。
「でも、二人の合奏を聴いていたら本当に楽しそうで。ずっと聞いていたくなってしまって。それでお兄さまにも、先生にも相手の正体を告げずにいてしまったの。ごめんなさい」
 穏子が身体を丸めて謝る。
「穏子さま、そんな」
 茅子が慌ててそれを押しとどめる。
「先ほどは助けていただき、ありがとうございました」
 茅子は穏子の目をしっかりと見て、お礼を言った。
「知らなかったとはいえ、左大臣家のご嫡男さまに伴奏をさせるなど。とんだ無礼を働いてしまいました。申し訳ありません」
 茅子が頭を下げる。
「私はその責を負って、この邸を去ろうと思います」
 自分でもびっくりするくらい、すらすらと言葉が口をついて出てきた。
(そうだ、私はこの邸を去ろう。そしてどこか、私を知らないところへ行こう。右大臣家にも戻らない。この姫さまは、幸せにならなくてはいけない)
「先生、そんな」
 穏子が視線を落とす。
「ただ、私が琵琶の弾き手だったことは誰にも告げないでいただけないでしょうか? 私はこのまま黙って邸を去りたいのです。我が儘を言っていることはわかっています。でも、どうか」
 穏子は沈黙していたが、やがて口を開いた。
「わかりました。そのようにいたします」
「ありがとうございます」
 茅子は軽く頭を下げた。
 穏子の元を離れて自身の局に戻り、茅子は荷造りをし始めた。
プロフィール

ゆきめ

Author:ゆきめ
ブログタイトル:しおんのいだしぎぬ。

日々のこと、趣味について語りたいと思います。
心理学、西洋占星術、歴史(主に院政期)など。
よろしければおつきあいくださいませ☆

2012年11月6日ウェブリブログから移行しました。記事の上にある参照数とブログ気持ち玉はウェブリブログのときのものをそのまま載せたものです。

公募小説の投稿などは「遠野紗雪」という名前を使っています。
note、「小説家になろう」サイトにも投稿しています。

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