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2022-03-23

弔い酒、二つ

おどたさんにささぐ


粗末な家屋の中で、尊氏は臣下と勝利を分かち合っていた。

「そこの者、こちらへ参れ」
尊氏が、離れて座っていた武者に声をかける。
「わ、私のことですか?」
黒々とした髭をたくわえた荒武者が、おどおどしたようすで返事をする。
「そうだ、お前だ」
尊氏が満面の笑みで言う。
「此度の戦では良い働きをしてくれた。そなたの大槍を見て敵は怯んでいたぞ。酒を酌み交わそう」
「もったいなきお言葉」
荒武者がひれ伏す。
「それに、そこの」
次に尊氏は入り口近くの下座に座っていた痩せた男に声をかけた。
「斥候役のそなたが敵の陣営を正確に伝えてくれたおかげで、我が軍は勝てたのだ。そなたもこちらに参れ」
「はっ」
痩せた男は恐縮したようすで尊氏の近くにやって来た。

尊氏はこうして功のあった者たちを、身分の上下にかかわらず近くに呼び、労をねぎらったのだった。
そのようすを見ていた配下の者は士気を上げ、陣営の結束は一気に高まった。

尊氏の隣には、弟の直義がいた。
満足そうに何度もうなずき、尊氏と家臣たちのやりとりを見ていた。


それから、数十年後の二月二十六日。
尊氏は、自室で一人酒を飲んでいた。
「これは、直義の分」
盃に酒を注ぎ、一気に飲み干す。
「これは、師直の分」
同じようにして、酒をあおる。

二月二十六日は、足利直義と高師直の命日だった。
といっても二人は一緒に死んだわけではない。
師直が一族もろとも戦死した一年後に、直義は病で亡くなった。
同じ日になくなったことを毒殺だ、などと言う輩もいたが、尊氏は相手にしなかった。

「あの頃は、よかった」
老いた尊氏は遠い昔に思いを馳せる。
背負うものが少なかった当時は、好きなようにやれた。
臣下に目をかけることで、皆が私を慕ってくれた。
それを直義も温かい目で見守ってくれていた。

いや、本当にそうだろうか。
直義は、本当は辟易していたのではないか。
誰彼かまわず「ほうび」をとらせる、私に。
声をかけること以外にも、私は戦で得た報賞のほとんどを臣下に与えていた。
誰にどれぐらい与えるかを采配していたのは直義だった。
私は昔から、そういうことが苦手だった。
人や物に、順位をつけることができないのだ。

あのときも……。
直義と師直との仲に亀裂が入り、直義は私にこう問いただしたのだ。
「兄上は私と師直どちらをとるおつもりですか!」と。

私は、一瞬言葉に詰まってしまった。
「血を分けた実の弟と臣下、兄上はどちらが大事か、選べぬようだ」
挑発するような調子の声音とは裏腹に、直義は寂しげな表情をしていた。
去って行く弟を、私は追いかけることができなかった。
その頃には、背負うものが増えすぎていた。

あのとき、私が「それは直義、お前だ」と答えていたなら、事態は変わっていたのだろうか……?
そこまで考えて、尊氏はかぶりを振る。
いや、きっと……。
私には出来なかっただろう。
今さら自分の生き方を変えることは容易ではない。

直義は昔から、自分から汚れ役を買って出てくれた。
私はそれに、ずっと甘えてきたのだ。
どちらが大事か、と問われたときも、直義なら分かってくれるだろうと甘く考えていた。
それがどれほどを直義を傷つけるかなど、考えもせずに。
今のこの結果は、その報いなのだ。

尊氏はきつく目を閉じた。
直義と師直、二人の顔をなんとか思い出す。

まさか同じ日に亡くなるとは、な。
死んでからも私に選択を迫るか、直義。

尊氏はとっくりに手を伸ばし、また酒をあおりはじめた。
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2021-07-28

「一条天皇回顧と、恩返しのことー行成と俊賢ー」

なるみさんにささぐ

ーー寛弘八年八月十一日。

涼しげな風の吹く早朝、一条院に一人たたずむ男がいた。
権中納言で権皇太后大夫の藤原行成である。
(暑さが、少しやわらいだ気がする。それとも私が早い時間に来てしまっただけか)
行成は誰もいない一条院の中を見まわした。
儀式が始まる一刻(約二時間)も前から、儀式場に来ているのである。
故一条院の法事になにか不手際があってはいけないという思いからではあるが、人任せにしないところに彼の真面目さ、忠誠心の篤さがみてとれる。

一条院の仏殿には、先日供養した三体の仏像が安置してあった。
今日また新たに仏像が運び込まれるのだという。
(故院は、信心深くあらせられたからな)
意識せずに手を合わせながら、行成は述懐する。

(私にとっては、一条院自身が仏に見えたものだったが……。たいした身分でない私を、異例に抜擢してくださって。本当に良くしていただいた)
行成は居ずまいを正し、手をしっかりと合わせて念仏を唱えた。
(どうか、安らかに)
「皇太后権大夫殿、儀式はまだ始まっていませんよ」
からかうような口ぶりではあったが、声の調子には相手を包み込むような優しさがある。
「中宮権大夫殿」
行成の視線の先には権中納言で中宮権大夫の源俊賢がいた。
「早いですね」
「いやなに、あなたには負けますよ」
俊賢はそう言ってからからと笑う。
年齢は五十を超えているが、明るくはきはきと話すので歳よりも若く見える。
だが堂々とした態度は年相応であり、顔つきには威厳が感じられた。
「こんなに早くに、どうしたのです?」
俊賢が尋ねる。
「故院の法事に、なにか不手際があってはいけませんから。事前に最後の確認をしておこうと思いまして」
「そうですか。相変わらずですな。全く実直なことで」
俊賢が目尻を下げながら言う。
古くからの友人として、行成と長く親しくしてきた俊賢である。
一回り年下の行成は、息子のように感じられることもあった。
「いえ、そんなことは。故院には恩がありますから。地下の者だった私を蔵人頭に引き立てていただいて」
「そうでしたな」
俊賢がうなずく。
「故院に私を推挙してくれたのは、中宮権大夫ですよ。私は故院に対してもちろん恩義を感じていますが、貴殿に対しても感謝の気持ちを忘れたことはありません」
行成が、俊賢の目をまっすぐに見て言う。
俊賢は照れくさいのか、笑うだけである。
「あのときは本当に、ありがとうございました」
行成が頭を下げる。
「私はただ、朝廷の事を考えてあなたを推しただけですよ。あなたほどの人材が埋もれることになれば、この国にとってたいそうな痛手になると、そう考えただけのことです。別にあなたを救うためではありません」
「またそのようなことを……」
「いつも言っているでしょう。私ではなく、故院に感謝なさいと」
「もちろん私は故院に感謝しています。だが、そもそも貴殿の推挙がなければ私はこうして公卿になることも出来なかった。一体、なにを思って、どのようにして故院に私を推挙したのですか? 貴殿は私が問うてもいつもはぐらかしてばかり。そろそろ本当のことを教えてくれませんか?」
俊賢は行成の懇願にも似た問いかけに、困ったような笑いを浮かべるばかりである。
行成はそれを見て、小さくため息をつく。
「本当に、貴殿は肝心なことに関してはいつも秘密主義で。まったく、寂しい限りですよ」
行成は恨めしげに言い、俊賢の元から離れるのだった。

その場に残された俊賢は、行成の背中を見送りながら十六年前のことを思い出していた。

ーー長徳元年八月。
俊賢は、一条天皇の御前にいた。
「それで、話というのはなんだね?」
若き帝が、鷹揚に尋ねる。
俊賢は緊張で声を震わせながら、帝に話し始めた。
「私の後任のことでございます。蔵人頭には、頭の弁藤原行成を推薦したく存じます」
「蔵人頭は前蔵人頭の推挙によって任じられることもあるが……。行成か。たしかによくやってくれているが、彼では身分が低いだろう」
「たしかに頭の弁はまだ地下人です。ですが、彼には確固とした信念があります。朝廷の役に立ちたいという信念です。ものの善悪や賢愚を良く弁えた者でもあります。かような人物こそが、朝廷には必要なのであります。この者が日の目を見ないとあれば、朝廷の損失は計り知れません」
俊賢は一気にまくし立てた。
帝は、それを黙って聞いていた。
しばしの沈黙のあと、帝が口を開いた。
「わかった。その者を取り立てよう」
「はっ」
俊賢には、帝の言ったことが信じられなかった。
それでつい間の抜けた言葉が口をついて出てしまったのである。
「どうした? おまえが言い出したことだぞ」
帝が少し笑って聞き返す。
「その、まさか聞き入れられるとは思いもしなかったので……」
俊賢は、自分でも無茶なことを言っている、と思っていた。
行成が蔵人頭になるとなれば異例の出世である。
当然他の者の反感も買うだろう。
帝はそういった臣下の感情に敏感な御方である。
自分の願いが聞き入れられる見込みは低いだろうと、そう思っていたのだ。
「あの……、なぜ、でしょうか? 私の希望を聞き入れてくださったのは」
俊賢がおそるおそる尋ねる。
「お前が他人に対してそこまで必死になる姿を見るのは、初めてだからさ」
俊賢が目を見開いた。
「おまえはいつもよく気づきよく考え、よく働いてもくれる。だが私以外の他人に対してはいつも冷淡だ。そのお前が、こんなにも他人に対して一生懸命になれるなんてね。お前がここまでしたくなるほどの人物は、さぞかし立派な人間だろう。だから受け入れることにしたんだよ」
「は、はあ」
俊賢は目を丸くする。
臣下の感情に敏感な方だとは思っていたが、よくそこまで、と俊賢は感嘆した。
(なんて素晴らしい御方なのだろう。私は、この方のために生きよう。この方に、全身全霊で忠義を尽くそう)
俊賢の目には涙が浮かんでいた。
礼を言い、頭を何度も下げてから、俊賢は帝の御前を退いた。

(行成を推挙したこと。それは私の身勝手だったかもしれない)
仏殿で、俊賢は一人思いを巡らせていた。
(私は謀反人の父を持ち、不遇な環境にあった。同じように不遇な、いやもっと不運かもしれない行成殿に目がいったのは、そのためかもしれない。行成殿は名門の家系に生まれながら、父をはじめ多くの親族に先立たれていた。私はきっと、彼の中にかつての自分を見ていたのだろう。なんて自分勝手なのだ。こんなこと、恥ずかしくて誰にも言えやしない。だがそれはさておき、故院はなんて優れた御方だったのだろう。私は本当にあの方のお役に立てたのだろうか)
俊賢は伏せていた目を上げた。
視線の先には観音像があった。
観音像は優雅に微笑んでいた。
俊賢を見守っているかのように。
(故院が亡くなっても、まだ出来ることはあるはずだ)
俊賢はぎゅっと唇を結び、儀式の手順を確認しはじめた。


故院の七七日正日法事は、つつがなく終わった。
感涙にむせび泣く者がいたほど、素晴らしい儀式だった。


儀式が終わって皆が去って行ったあと、行成はまた俊賢に声をかけられた。
「どこかへ行かれるのですか?」
牛車の手配をしていたのが目に入ったらしい。
やはり目端のきくお方だな、と行成は感心した。
「故院の宮たちのところへ参るところです」
「まだ働くのですか! 働き過ぎで倒れてしまいますよ」
俊賢は仰天していた。
もう深夜になっていたから、無理もない。
「宮たちに奉仕することが、故院が最も望んでいたことであり、故院の恩に報いることだと思うのです」
俊賢は少し思案していたが、やがて口を開いた。
「いえ、故院が最も望んでいたのは、政(まつりごと)を上手くやることではなかったでしょうか」
(そうだ、そのために故院は道長とも協力したのだ。正しい政のためには臣下の力が必要だと、そう割り切られて。思うところは、たくさんあったはずだ)
「私はそうは思いません」
行成が言い返す。
「いや、しかし」
俊賢も負けていない。
二人の視線がかち合う。
その真剣なようすがおかしくて、二人は同時に吹き出した。
「人の願いは、一つや二つじゃ足りません」
行成が笑う。
「そうですね。故院もまた人であったことを忘れていました」
俊賢が言葉を重ねる。
二人は目を合わせ、互いににっと笑った。
言葉にしなくても、共有できる思いがある。
(自分に出来る、恩返しをしていこう)
二人は銘々の役割について考えながら、その場を離れた。
口元に小さく笑みを浮かべながら。


   参考文献
倉本一宏 2009 御堂関白記(中)
倉本一宏 2012 権記(下) 講談社
黒板伸夫 1994 人物叢書「藤原行成」 吉川弘文館
保坂弘司 1981 大鏡 講談社

国際日本文化研究センター
https://www.nichibun.ac.jp/ja/?_ga=2.48685475.464294693.1627459762-561591705.1627459762 
のデータベース 「摂関期古記録」もすごく助かりました。
「権記」「御堂関白記」「小右記」から「行成」や「俊賢」を検索してネタを探しました(ネタ言うな)。

   あとがきのようなもの
「宮たちに奉仕することが~」は実際には行成が「密かに思ったこと」として書かれています(権記)。
他にも儀式のようすを描きたい気持ちもあったのですが、力尽きました。
この日は御堂関白記ではわりとあっさり書かれてるのに、権記の記事は詳細で、行成自身が感動しているようにも見受けられます。
行成は一条天皇のことを本当に慕っていたのだなあと記事を読んで思いました。
題名を考えるのに一番苦労したかもしれません。
実は今もあまり気に入っていません。
しっくりくるのが思い浮かばないー(>_<)
2021-07-01

妊娠しました

妊娠しました。
ずっと不妊治療をして、ようやく授かりました。
とても嬉しいです

不妊治療の詳細を書いておきます。
私自身、治療中は他の方の体験記などにとても助けられたので。
もちろんデリケートな話題ですし、見たくない方もいると思います。
妊娠検査薬のフライング画像も載せていますし。

それでも良いという方は「続きを読む」をクリックしてください。

続きを読む

2021-05-22

占いの通信講座を修了しました

ルネ・ヴァン・ダール研究所
https://www.rene-v.com/index.html

さんの通信教育を修了しました。
西洋占星術の初級講座です。

以前からきちんと学びたい、西洋占星術を体系的に理解したい、という気持ちはあったのですが、受講料がネックで足踏みしていました。

去年定額給付金が入ったことで、思い切って受講することにしました。
通学はとても出来ないので(田舎住みのため)、通信講座があって助かりました。
自分のペースで出来るのも良かったです。
最後の方の課題提出とかはけっこうギリギリでしたが、期限内に修了することが出来ました。

中級の方をすぐに受講するかは迷い中です。
いずれ受講するとは思うのですが、今はちょっと先の見通しが立たなくて。
不妊治療中で、どれぐらい一日に時間がさけられるかとかが、わからないのですよね。
期限内に修了することが出来るか不安で。
まあ、これに関してはもう少し考えます。

今後は占星術の知識を創作に生かす、あるいはメール鑑定をする、ということが出来たらなあと考えています。
仕事にするなら、中級以上は必ず修了したいところですが。
不妊治療で仕事を減らさざるおえず、それで副業として占いが出来ないか、と考えてもいました。
今はココナラといったサービスもあるようですし。
まあ、それはもっと勉強して、経験も積んでからでないと難しいでしょうけれどね。

今まで書いていた占い記事ですが、全部消しました。
(苦労して書いた記事なので消すのは忍びなく、実際には下書き状態で保存してありますが)
占いの講座を修了したからには、中途半端なことはしたくないな、と。
もともと本に書かれていたことを自分なりにまとめたり、考察したりしていただけのものですし。
なんか、占いのサイト?掲示板?にリンクだか転載だかされてるみたいですけれどね(苦笑)。

しばらく占いの記事を書くことはないと思います
(自分なりに西洋占星術を習得できたと思ったらまた書くかもしれません)。

今まで占い記事を見に訪問していただいた方、どうもありがとうございました。
つたない記事を見せてしまって恥ずかしい気持ちもありますが、読んでいただいたことはとてもうれしいです。
2021-04-03

今鏡マンスリー「源基子」 

その日、帝は第一皇女聡子内親王の局を訪れようとしていた。
局に入るまえに、ふと足を止める。
聡子内親王が、女房と二人で話をしているのが聞こえたのだ。

「宮様、その手は悪手ですわ」
「そう?」
「ええ、だって。ここを、こうして」
女房は何やら手を動かしている。
木をはじくような音もした。
二人はどうやら碁をさしているらしい。
「私の勝ちですね」
「そうね。兵部の勝ちね。でも、少しは手加減してもよろしいのではなくて?」
聡子内親王が頬を膨らませているのが、目に浮かぶようだった。
「そうは参りません。宮様は大事なお方ですけれど、それと勝負事とは別でございます」
「容赦のないこと」
怒った口調で聡子内親王が言う。
が、直(じき)にそんな自分がおかしくなったらしく、ぷっと吹き出した。
「兵部は本当に何でも出来るのね。和歌もいろんな歌を知っているし、琵琶も弟子がとれるほどだというじゃないの」
「母にたたき込まれましたから。後ろ盾のない人間には、生きる術(すべ)が必要だ、と言い聞かせられて」
「ふうん。そういうものなのね」
聡子内親王は少し考えるそぶりをしていたようだった。

帝は付き添いの侍従に尋ねた。
「あの女房は?」
「参議源基平の娘です。兵部の君と呼ばれている、客分の女房にございます。女院さまからよろしく恃むといわれて、宮中に出仕いたしました」
「母上が」
(そういえば、先日そのようなことを言われた気がするな。このところ忙しくてすっかり忘れていたが。参議基平と言えば、小一条院の息子。小一条院は母の異母兄だから、いろいろと気にかかるのだろう)
「そろそろ一の宮様にお声をかけさせましょうか?」
侍従が尋ねる。
「いや、気が変わった。今日はやめておく」
「はあ。そうですか」
侍従は不思議そうな顔をしていた。

薄様の布を引いた几帳越しに、二人の姿が透けて見えた。
くつろいだようすの聡子内親王と、折り目正しい態度の兵部の君。
兵部の君は、上品な所作をしていた。
聡子内親王に礼を尽くしているようだが、へつらっているようには見受けられない。
背筋も指先も伸びていてきれいだ。
局の入り口から、兵部の君の袴の裾が見えた。
見事な蘇芳色だったが、年季が入っているようだった。
(主に敬意を払い、一定の距離を保って接することが出来る。礼儀を弁えていて、それでいて冷たいということもない。客分の女房として申し分のないことだ。今どき珍しい女房だな)
帝は感心したようにうなずき、その場から離れた。


次に帝が兵部の君を見たのは、宮中の庭だった。
渡り廊を歩いているときに帝は足を止めた。
梅の咲き誇っている庭で、女が一人たたずんでいたのだ。
(あれは……。兵部の君ではないか)
しばらくようすを見ていた帝だったが、兵部の君のただならぬようすが気になり、庭に降りた。
「どうしたのだ?」
兵部の君は突然の声にはっとし、驚いて声の主の方に顔を向けた。
「泣いて、いたのか」
兵部の君の目からは、涙が流れていた。
「あっ、これは」
兵部の君が急いで涙を拭った。
「梅の木に、なにかあるのか?」
帝が優しく尋ねる。
「……。父が、好きだったのです」
「亡くなった参議源基平がか?」
「はい。父は娘の私から見ても、浮世離れした、どこか儚い人でした。親王になれなかった自分を、憐れんでいるような節がありました」
「そうか、すまぬな」
「いえ、主上に謝っていただくようなことではございません」
基子は慌てて首を横に振った。
「梅の花を見ると、どうしても父を思い出してしまって。どうしてこんなにも早く亡くなってしまったのだろうか、と。私たち家族を置き去りにして」
「……」
「お見苦しいさまを見せてしまいました。申し訳ありません。すぐに立ち去りますので」
兵部の君は、早々にその場から立ち去ろうとした。
「待て」
帝が兵部の君の腕をつかむ。
「えっ……?」
兵部の君が目を見開く。 
つぶらな目と、小作りな口。
なめらかそうな肌に、緊張が走る。
帝が美しい、と思ったのもつかの間、兵部の君が急いで顔を隠そうとした。
「あっ、申し訳ありませぬ」
「その……。花びらが、顔についているのだ」
帝は兵部の君の頬についた花びらに気づき、咄嗟にそう言い繕った。
「そう、でしたか」
「とってしまうから、こちらに顔を向けなさい」
「? はあ」
帝がわざわざ女房の顔についた花びらをとるなどと、おかしなこと、と思いながらも兵部の君は帝の方を向いた。
ゆっくりと手を伸ばし、帝は兵部の君の頬についた花びらを拾った。
ついでに涙も拭ってやる。
兵部の君の頬がほんのりと赤く染まった。
あたかも梅の花のように。
帝は胸の高鳴りを覚えた。
それは、随分と長く忘れていた感覚だった。


帝は兵部の君を寵愛するようになり、殿舎をも与えた。
「ここは梅壺と言ってな、蔀からは見事な梅が見えるのだ。そなたにぴったりであろう」
梅壺を案内する帝の声は弾んでいた。
少年の日に戻ったかのようだった。
「そんな……。私にはもったいのうございます」
兵部の君は、扇で顔を隠す仕草をした。
「そんな、顔を隠すような間柄でもないだろう」
帝がやんわりと注意する。
「いえ、そういうわけには参りません」
兵部の君は帝の寵愛を一身に受けていながらも、どこかよそよそしかった。
慎ましやかで謙虚だ、と宮中では評判だったが、帝としてはそれが少しばかり寂しい。

ある日、帝は兵部の君にこう尋ねたことがある。
「私が十善の君でなくても、あなたは私を愛してくれるかい?」
「主上は天子になるべくしてなられた方。天子として生まれられないことなど、あるはずもございません」
兵部の君は、そう静かに返した。
「そうか……」
帝は口元を少しあげてなんとか笑った。
(最初は女房として弁えているところを気に入ったのに、今ではそれを寂しく感じてしまう。勝手なことだな)
兵部の君の肩を抱きながら、帝はそんなふうに思った。
(この人は梅の花の精のようだ。可憐で、儚げで。父親のことを儚げな人だったと言っていたが、この人もそれに負けていない。これだけ愛しんでいるのに、どこか距離があって、生身の人間のようだとも思われない。いつかふわりと私の前から消え去ってしまうのではないだろうか。花の精というのは、そういうものだと聞くから)
帝はそんな考えを一通り巡らせ、兵部の君を強く抱きしめるのだった。
どうか自分の元から離れていかないように、と願いながら。


時は流れ、梅壺の女御と呼ばれていた兵部の君は皇子を二人産んだ。
位が授けられ、そのときに名も基子と定められた。
帝には皇女は四人いたものの、皇子は一人だけだった。
世の中は祝賀の雰囲気に満ちていた。
人々は喜ばしいこと、とひそめきあった。

慌ただしい日々を送る中で、基子は聡子内親王から、こう言葉をかけられた。
「兵部の君。いや、女御殿。父上自身を、もっと見てはもらえないだろうか」
「……?」
言葉の意図がつかめず、基子は首をかしげた。
「その、女御殿は父を男としてみたことがあるのかと、少し不思議に思うことがあって」
聡子内親王が顔を背ける。
「主上は天子にございます。男としてみるなどと、そんな恐れ多いことは出来ません」
「そう、か」
聡子内親王の顔に、落胆の色が浮かんだ。
(なにか、おかしなことを言ったのだろうか。不敬なことは言っていないと思うのだけれど)
聡子内親王の表情が、基子には気がかりだった。


そんな世の雰囲気も、長くは続かなかった。
帝が床についたのである。
病床で、基子は腕を強くつかまれた。
「私の元から、どうか離れていかないで欲しい」
(私の元から離れていくのは、帝の方なのに。父と同じように、私を置いて去って行こうとしているのに)
基子はやりきれない思いを抱きつつも、
「私はここにいます。離れていったりなど、しません」
と語るのだった。
それからまもなくして、帝は世を去った。
基子の生んだ第三皇子は、一歳にもなっていなかった。


十年近くの歳月が過ぎた。
基子は帝の忘れ形見の皇子たちを愛情深く育てた。
ある春の日、基子は邸の庭で皇子二人と遊んでいた。
下の皇子に、突然こう聞かれた。
「お父上はどんな人だったの?」
「立派な方でしたよ。世を良くしたいと、それはもう一生懸命で……」
「ふうん。お母様は、お父上のどんなところが好きだったの?」
「す、き? それは……」
言葉に詰まった。
基子ははっとした。
(私はこれまで、帝のことを好きだと思ったことがあっただろうか。尊敬の念を抱いてはいても、この子たちに注ぐような愛情を注いだことが、果たしてあっただろうか)
基子は、いつかの聡子内親王の言葉を思い出していた。
(一人の男としてみたことはあるか。あれは、そういう意味だったんだ。ああ、私はなんということを)
基子は顔を手で覆った。
「お母さま?」
上の皇子が心配そうに尋ねる。
「ごめんね、なんでもないの」
二人の皇子が、つぶらな目で自分を見つめている。
基子は呼吸を整えた。
(過ぎたときはもう戻せない。今目の前にいる、この子たちに愛情を持って接すればいいんだ。帝の分まで)
基子は二人の皇子を一度に抱きしめた。
ふと上を見上げた。
「あっ、梅が……」
まだ蕾の枝振りも多かったが、それらは間違いなく梅だった。
帝と梅の木の下で話をしたことが思い出された。
基子の頬に、涙がひとしずく伝った。


注:帝→後三条天皇です。
プロフィール

ゆきめ

Author:ゆきめ
ブログタイトル:しおんのいだしぎぬ。

日々のこと、趣味について語りたいと思います。
心理学、西洋占星術、歴史(主に院政期)など。
よろしければおつきあいくださいませ☆

2012年11月6日ウェブリブログから移行しました。記事の上にある参照数とブログ気持ち玉はウェブリブログのときのものをそのまま載せたものです。

公募小説の投稿などは「遠野紗雪」という名前を使っています。
note、「小説家になろう」サイトにも投稿しています。

このブログ内の文章の無断転載等はおやめ下さい。

コメント本文にURLを記載したい場合は、URLかメールアドレスのところにでも張って、その旨をお書きください(スパムコメント防止のため)。
お手数おかけしますm(_ _)m

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