FC2ブログ
2015-03-29

台記仁平二年八月二十四日の記事と成親考

※下ネタというか下品な話なので、苦手な人は読まないでください。


台記の仁平二年八月二十四日に、以下の一文があります。

「亥刻許讃丸来、気味甚切、遂俱漏精、希有事也、此人恒常有比事、感嘆尤深」

ここでいう讃丸というのは藤原成親のことだそうです。

他にもこうした記述があります。

「彼朝臣漏精、足動感情、先々常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也」

東野治之氏の訳と談。
「彼の朝臣、精を漏らす。感情を動かすに足る。先々も常にかくの如き事有り。此の道において往古に恥じざる人なり」
讃は頼長を受け入れながら射精するのが常であった。それが頼長を喜ばせたのである。

台記には「讃」と「讃丸」という人物が出てきており、東野氏は「讃丸」を「讃」と同一人物としていたそうですが、五味文彦氏や大石幹人氏の見解によると、違うそうです。
即ち「讃」は藤原隆季で、「讃丸」は藤原成親なんだとか。

追記:この記事は東野氏によれば成親、五味氏や大石氏によれば為通のことを指すのであろう、とのことです。


しかし、この道において往古に恥じざる人なり、って(^_^;)
この道ってどの道だよ。
男色道?もしくは房中術か。
この記述を初めて見たときは、成親十五歳、恐るべし!と思ったものです。
そして頼長の喜びよう……。
情事中に精を漏らされるのってそんなにうれしいのかな?
自分が相手を楽しませてると感じられるから?
ぶっちゃけ私にはよくわかりません(;'∀')

ただ、この記述を読んで、なんとなく思い出したのが昔ちらっとだけ読んだ漫画。
明治時代、北海道の開拓期。
遊女としてこの地に向かわされた十二歳ぐらいの少女。
容貌がいまいちだった彼女は、少しでも多く客を取るために、情事中におしっこをちょっとずつ漏らすことを考える。
客の男性にとってみれば、自分のそれがいいから相手も悦んでいるんだ、だからこんなにも濡れるんだ、っていう、そういうことでしょうね。
この漫画、タイトルすら思い出せないのですが、絵が強烈でなんか印象深いんですよね。

情事中に射精する。
成親はまあ、ノリノリだっというか、自分も楽しんでいたのかな、と思ったりもしますが、そのへんは本人に聞いてみないと分かりません。
ですが、その後の展開を考えると、ただ男に抱かれることを愉しむだけの人だった、ということは考えにくいのじゃないかなあとは思います。
射精も本当は別のことを考えて、演技でやっているのかもしれませんし。

「芙蓉の殿上人」、最初はもっと笑えるカンジにしようと思ったんですけどね。
ナルシストキャラというか、自分に酔ってるような。
「鏡よ鏡、この世で一番美しいのは誰?」とか鏡の前で言ってしまうとか(笑)。
登場人物につい「翳(かげ)」を付けてしまうのは私の悪い癖ですね。
私のブログ小説で全く屈託のない人なんて、八条院ぐらいですよ。

成親については他の方の仰る、「高性能パトロンレーダー標準装備」とか、「イメージはずばりカマっぽい」だとかも面白いなあと思ったのですが、父親の家成とは違う感じにしたくて、結局シリアス仕様にしてしまいました。

って、顔も出してるブログで何書いてるんでしょうね、私ったらw

この記事の参考文献と、「芙蓉の殿上人」で特に参考にしたもの。

東野弘之 1979 「日記に見る藤原頼長の男色関係ー王朝のウィタ・セクスアリス」ヒストリア八四所収
大石幹人 1999 「院政期貴族社会の男色意識に関する一考察ー藤原頼長に見る男色関係の性格ー」 福島県立博物館紀要第14号
五味文彦 1984 院政期社会の研究 山川出版社

元木泰雄 2012 平清盛と後白河院 角川学芸出版
元木泰雄(編) 2014 保元・平治の乱と平氏の栄華 清水堂出版
スポンサーサイト



2013-04-23

読書メモ:文明国をめざしてー幕末から明治時代前期ー

ツイッターでも呟いたのですが、気になったことをメモします。感想は色字で書きます。

西郷隆盛は明治3年、政府高官の豪勢な暮らしぶりを非難するとともに、〈西洋諸国を斟酌〉するのはよいが、〈外国の盛大を羨み〉財力を顧みずに事業を起こせば国家は疲弊すると、木戸・大熊らを批判した。

明治4年に至っては7月に山縣が西郷を訪ね、兵権の政府掌握と廃藩の急務を急いだ。そして「それはよろしい」という西郷の一言で一気に局面が動き、木戸・大久保も決意を固めた。薩長からの自立を求める岩倉も歓迎した。

天皇は鹿児島・山口・佐賀・高知など有力藩主の労をねぎらった上で、在京の藩主を呼び出して知藩事の免官を言い渡した。西郷・木戸・大久保らが秘密裏に工作し、当日まで高知藩にも知らせなかったから、翌日の政府会議は紛糾した。

しかし、〈もし各藩にて異議等起こり候わば、兵を以て撃ち潰しますの他ありません〉という西郷の一喝で決着した。まことに「西郷恐るべし」という他ない。

今回も最後は武力で決着がついたわけだが、同時にともかくも諸藩主が承諾した形をつくった上に、維新の最大の功労者でありながら政府から距離を置き、中央集権化と開花政策に批判的だった西郷が前面に出たからこそ、大きな混乱なしには違反が実現できたといえるだろう。


こういう記述を読むと西郷さんはやっぱり凄いなーと思うわけで。先見性が素晴らしいよね。こんな人が西南戦争を起こしたなんて、ちょっと考えられない。負けるとわかっていても男には立ち向かわなければならないことがある!を地でいった人なのだろうか。
武士のことを分かっているからこそ、その慰撫に努め、最後にはそれらと一緒に滅することを選んだ人、とするのは小説的に過ぎますでしょうか。西郷自身は勝ち目はないことはわかっていたんじゃないかなあ。

P208、西郷が朝鮮への即時派遣に固執し、大久保も譲らず、進退きわまった三条実美はついに卒倒した(ただし、夜には意識を回復してかゆを食べ、翌日にはかなり軽快した)。新政府の太政大臣ってのは大変なんだなあ。


西郷は自分が(朝鮮で)殺されることで「征伐」の名分を作り、不平士族の〈内乱を冀う心を外に移し〉挙国一致の「道義」国家を作ろうとしたというのが、今でも政治史の通説のようだ(P207)。

これは、う~ん。あまりにも人間を美化しすぎではないかい?西郷だって一人の人間だよ?それに自分がいなくなったら新政府が困ることぐらいわかっていたのじゃないのかと。情に深いのはわかるけれど、それなら別の誰かを行かせた方が良くないかい?と単純に思ってしまうよ。

P205。西郷はなぜ朝鮮使節になろうとしたのか。敵対する相手の懐に飛び込んで事態を打開する手法は、第一次長州戦争や江戸城明け渡しで成功していた。だから、平和的解決が西郷の本心だったという見方もある。 
これには納得出来る。

P226。藤田みどりによれば、江戸時代の「黒坊」はオランダ船の従業員として長崎では見慣れた存在で、歌舞伎や浮世絵にも登場した。庶民には好奇のまなざしはあっても蔑視はほとんどなかったが、アフリカの植民地化や奴隷貿易が進む中で、西洋書に接した知識人や幕末の洋行者には「野蛮」「愚昧」のイメージが生まれた。
しかし、多くの人に影響を与えたのは小学校の教科書にもなった福沢諭吉の「世界国尽(せかいくにづくし)」だった。そこにはアフリカは〈無智混沌の一世界〉であり〈黒奴にて風俗甚だいやし〉く、人を殺して肉を食うなど、〈実に下にして人間の最下等〉だと書かれていた。
台湾「生蕃」にも首狩り・人肉食の風習があったようだが、先に紹介した彼らの姿はこうした「黒人」
のイメージにぴったり重なる。じつは、このときの日本兵も「生蕃」の首を持ち帰っているのだが、それだけに〈いっそう、日本兵は開花した文明国の兵隊として勇ましく立派に、メディアの中に描かれなければならなかった〉と土屋礼子は指摘している。

このあたりをツイッターで呟くとヤバいかなあと思ってブログにメモすることにしました。
私は右翼ですが、知識としてこういうことも頭に入れておかないといけないよね。


P348。岡倉覚三。
西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的虐殺をおこない始めてから文明国と呼んでいる。近頃武士道ーーわが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術ーーについて盛んに論評されてきた。しかし……もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。
大々的虐殺というのは新聞各社が作り上げたねつ造だったと思いますがね。
郷に入りては郷に従え、ということなのでしょう。それが「列強」の在り方であったと。
「近代国家」を作るために日本は必死だったのでしょう。それを正当化するつもりはありません。
事実をありのままに受け止め、正しい歴史認識を持つべきだな、と感じました。「正しい歴史認識」とは何ぞや、って感じですがね。


P337。元老や天皇の権能が衰退した昭和期には、軍部や補佐機関が勝手な言動を繰り返し、天皇を含めて誰もその帰結に責任を負わないという、深刻な事態を招くことになる。

2012-11-15

トラックバック・黒歴史熟女恋物語「千年の恋 ひかる源氏物語」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー

邦画が盛況している昨今。さまざまなジャンルが網羅され、古今東西あらゆる文学作品が映像化されてきました。世界的に有名な文学作品「源氏物語」が幾度も映像化されるのも、当然のことでしょう。昨年(2011年)にも「源氏物語 千年の謎」が公開されました。しかしこの映画の評判はあまりよろしくない。劇場に観に行った妹に聞いたところ「生田斗真だけは面白かった」という始末です。そんな中途半端な駄作なら観たくないなー...
黒歴史熟女恋物語「千年の恋 ひかる源氏物語」ネタバレなし感想+ネタバレレビュー



※引越して来たばかりでトラックバックの仕方がよくわかりません。不都合がありましたらご指摘下さい。


読んで懐かしくなりました。この映画については「ゲンジがたり」という記事に感想をちょろっと載せました。

以下引用

映画の「千年の恋ー光源氏物語」に至っては、「吉永小百合を出したかっただけでは?」という疑念が生まれました。金にあかせて好き勝手する男を書きたいなら、別に光源氏じゃなくてもいいじゃん…。竹中直人の明石の入道が強烈でした。まだ源氏物語をきちんと読んていない段階でテレビでこの映画を観たので、その後もこの明石の入道のイメージが中々頭から離れてくれなくて困りました。何故にあんなにギャグっぽいの(+_+)?いや面白かったけどさ…。もっと教養があって奥深い人のはずなんだがな。六条御息所の描かれ方もちょっと納得がいかない。母親の面影を求めて年上の女性に、というわけではなかったと思うのだが。六条御息所はあまり好きじゃないけど、美しくて教養が高くて当代一の貴婦人、というのをもっと出してやれよ…。紫式部と夫の姿もね…。ちょっと型にはめて考えすぎ、な感が。この映画は源氏物語というより、それが書かれた時代にスポットライトをあてているだけみたいだから、これはこれでいいんだろうけど。つか2時間で源氏は無理あるよね(-_-)

レビューを読んでやっぱり中身のない映画だったなwと再認識しました。それにしたってひどすぎますがね(^_^;)
2012-11-12

「藤原頼通の時代」

2011/11/30 21:21 参照数61

画像

「日本の古本屋」で検索して、\1000、送料込みで\1200でGET。マーカー付きですが気にしませんよ( ̄▽ ̄)b(写真)
内容は中級者向け。難しい言葉がけっこう出てきます。これが中級者向けなら五味先生の「院政期社会の研究」は上級者向けになるかな。

内容は摂関家の権勢は後三条天皇即位を契機として失われたのではなかった、というもの。

私はこの著作を充分に読み込めてきないので、下手なことは書けません(--;)
それでも気になったことをいくつかと。

・11世紀40年代を境として、前期王朝国家と後期王朝国家とに区分する。前期王朝国家の行き詰まりを受け、後期王朝国家では国家支配体制の転換を決意した。長久荘園整理令の発令などがそれである。

・道長の時代までは事件が起これば先例を当てはめて解決するという手段がとられていて、それで不都合はなかったが、頼通の時代になると先例に当てはめて結論を出すということが難しくなるという事態が起こる。

・源範定の娘と祗子との間には、とりたてていわれなければならないほどの身分の差は意識されていなかった。←私にはとてもそうとは思えないのですが。祗子の身分が低すぎるがために他家に養子に出されたと考えた方が筋が通っているのではないかと。祗子腹の子供を引き取ったのは、やはり娘寛子の誕生が大きかったのでは?

・寺社問題に関し、互いに責任を相手になすりつけようとする天皇(後朱雀)と関白(頼通)

・頼通の時代に摂関家の権勢は道長の時代と比べて低下したが、道長の時代以前と比べると必ずしも低下したとはいえない。

・後三条天皇が過大評価されたのには、この後三条天皇の時代がすっぽりと入ってしまう約五十年間、1030年代のはじめごろから、いわゆる白河院政のはじめとされている1086年ごろまでの間は、史料の乏少期だからということもある。

・師実vs信長の戦い。藤原忠家・祐家兄弟をはじめとして、信長派の勢力は意外にも大きかった。それは師実や村上源氏公卿たちが、天皇の権力を笠にきて勢力を築いたからである。

・院政とよばれる政治形態が形成される第一歩を踏み出したのは十二世紀初頭であり、それは寺社強訴に対応しなければならぬという外からの強烈な圧力によって出現させられたものであった。

・道長は台頭しつつある在地勢力が司の国内支配を圧迫しつつある動向に対して、国司に多少の違法があっても諸国百姓の上訴を無視してやらなければ、国司支配そのものがあやうくなり、ひいては国政全体に影響してくる、と判断したと考えられる。←これに関しては道長にそこまで先を見通せる力があったのか疑問です。ちょっと道長を買い被りすぎでは?

ちなみに本書では公実さん摂政立候補のことには全く触れられていませんでした(^_^;)。
いや、淡ーく期待してたんですけど。
名前だけでも出てこないかなって。
本書の結論の一つ。
「道長の嫡系の摂関家では天皇の外戚関係はけっして不可欠のものではなかった。外戚関係を築くことに失敗したからとて摂関家の権勢はゆるがなかった。摂関家の権勢はほかのことに基づいているので、天皇との外戚関係は、藤原氏内部で争う場合に有効な切り札となっても、藤原氏内部で摂関相承のルールがきまってからは、あるに越したことはないという程度のものにすぎなくなっていた。
ところが後三条天皇が崩御したあと、摂関家内部で関白継承争いが生じた。~すなわち摂関家の権勢が低下したのは、摂関家内部の関白継承争いに基本的原因があったのである。(要約)」
だそうです(;_;)
やっぱり研究者の間では摂政は公実ではなく忠実で、というか外戚関係よりも北家嫡流筋(平たくいって御堂流)を重視するというのが「常識的な」判断だという見解で一致しているんでしょうか。
「常識的」というのは元木先生が著者「藤原忠実」で使っている用語なのですが、三川先生もその著者において同じ表現を用いています。
研究者の間ではわりとどうでもいいことなのかな。突っ込んだ研究もなくて、時々スルーすらされています。悲しいです(泣)。

話しは変って。
本書では小さいながらも「兄頼通に卑屈な態度をとっていた教通」という項目が立てられ、「古事談」に収録されているある逸話が紹介されています。それは「頼通が太政大臣に任ぜられ、その慶びを申し拝舞したとき、左大臣教通が地にひざまずいた。能信がこれを聞いて『大臣がひざまずいた例など聞いたこともない』と避難した。これを聞いた教通は、『父道長がたしかに、頼通を親と思え、といわれた。だから父に対してひざまずくのは当たり前だ。能信などこのようなことを父からいわれたことがないだろう』といった、と。」いうもの。このとき教通は六十六歳だったんだとか。そりゃ卑屈って書かれても仕方ないよね(~_~;)

しかし教通の発言といい、能信の立場といい、よく出来た話しである。
私は古事談の話しはまず疑ってかかることにしているので、この話をまるまる信じるわけにはいかないのだけど、「何もそこまで卑屈にならなくても、というのが公卿たちの間で潜在的にあって(この件と似たようなことは他にもあったんじゃないかな?)、それを代弁させるのに最も適当な人物が能信だった」と、つまりそういうことがこの話しの素地としてあったのではないかと。
この話しが残されている理由としては。
よくわかんないけど。

そうかと思えば「関白教通が、『藤原氏の公卿は皆退席せよ』といって藤氏公卿は教通以下全員退席したので、後三条天皇はやむを得ず成功(じょうごう)を承認した。」という話しもアリ。教通汚名返上?

それと、意外というか考えたこともなかったのが白河天皇の代になって始めて外祖父への太政大臣・正一位が追贈されたってこと。(ちなみに白河天皇の場合は外祖母にまで正一位が贈られている。)
これを坂本氏は孤立無援のままこの世に残されるわが子白河天皇の身を案じていい残したことだと論じていらして、そうだとしたら実仁・輔仁のことばかり考えていた後三条天皇のイメージが少し変わるなぁ、と。
「白河天皇の生母茂子は道長の息男能信の養女であって、白河天皇はその藤原能信を外祖父としているのだということを世に示すために、ことさらに外祖父母に追贈したのであった。これが後三条法皇が崩ずる前日のことであったのを見逃すことは許されない。」とまで書ききっていらっしゃるのね。

そこまでしなければならない皇太子に、何故帝位を譲ったのか。
実仁では駄目だったのか。
貞仁(白河)を皇太子から外して実仁に皇位を譲ることは憚られたからか。

ときて、後三条の真意としては帝の地位の安定化をはかった上で実仁・輔仁への皇位継承というのが本意だったのかな、と考えるに至った次第。
実際のところはどうなんでしょ。
ただ、血統云々はともかく、後三条崩御寸前の時点でより公卿の支持を得られそうだったのは実仁・輔仁兄弟ではなく貞仁だったというのは疑いようのない事実だと思う。

絶版で、古書価格は必ずしも安くはありません。でも摂関期・院政期について専門的に勉強したい人にはおススメです。というかこの内容でよく選書として出版出来たな。平凡社グッジョブ(^_^)b
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 藤原頼通の時代―摂関政治から院政へ (平凡社選書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


2012-11-12

とりかえばや物語と

2011/10/25 20:05 参照数58

平安時代の男性装束の脱がし方について(・∀・)←アホです。ですが私は至って真面目ですwww

とりかえばや物語読了。

訳がいいのかもしれないけど美文だったし面白かった~。

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 古典日本文学全集〈第7〉王朝物語集 (1966年) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


しかし四の君に密通し、男君(本当は女)も襲ってしまう宰相中将もどうかと思うけど、それ以上に四の君、吉野の姫君、女である春宮、高貴な女全てを自分の者にしてしまう女君(本当は男)はどうかと思った。

王朝物語であることを差し引いても。ここらへんも退廃的と言われる所以なのかな。

春宮が不憫で仕方ない(;_:)
だって自分が産んだ子と引き離された上に女君(男)とも会えなくなっちゃうんだよ?女君(男)勝手すぎない?なんかもう女君(男)の天下って感じで腹たったわ。あんたは光源氏か!

宰相中将の方がまだマシ、とは思わんが、何も知らない宰相中将にちと同情しちまいましたがな。つか気付けよ…そっくりの姉弟が入れ替わったってことに、と思わずツッコミを入れてしまった。そこが作者の狙いなのでしょうがね。
 
どうやって男装束を無理やり脱がせるんだろうという邪道な動機で読み始めたとりかえばやですが(いや、小説を書く上でちょっと必要でね、と言い訳してみる。)、思いの外ハマってしまいました。

結局どうやって無理やり脱がせたのかはわかりませんでしたが。

とりかえばやでは男君(女)が単衣で涼んでいたところに宰相中将がやって来て襲われましてね。

つまり直衣は着てないわけで…。やっぱり直衣を脱がすのは容易ではないと思うのですよ。たくしあげるのも大変そうだし。布が厚すぎて腰のあたりで止まっちゃいそうだ。

やっぱり無理やり脱がすのには無理があるのかな。男色は双方の合意なしには成り立たないのか。いや、積極的な女×男でもいいんだけど。ってまた話を飛躍させてますね、私ww

某様から下のサイトを教えてもらってさらに再考したのですが…。
http://www.kariginu.jp/kikata/kitsuke-3.htm

紐をほどいてから押し倒せばいいのかな?直衣も以外と薄っぺらくて簡単に引き剥がせそうな気もする、と思ったり。

でも画像の袍はペラペラだけど実際の直衣はもっと固くて重たい気もするし~。

あっ、私袍は男性装束の上の部分の総称で直衣もその中の一部に含まれるという理解をしているんですが、間違っていますかね?

あと別の方からは『時代小説の「袴の横から手を入れ~」みたいに、直衣がめくれたとき指貫の横に手をのばすんですよ』というご意見を賜ったり。

でもそれじゃ指貫は剥がせても直衣自体は着たままになっちゃうよね、間抜けな姿。と想像を重ね。

直衣を着たままことに至ることは可能なのか?と聞き(そんなこと聞くな)、

「イタズラ程度で本番は無理でしょうね(汗)」という回答をいただき、また考えこんでしまう始末。

押し倒す前に立ったまま引っぺがすことなら可能なんじゃないか?

という結論に至った次第でございますm(__)m

でも絵的にはやっぱり押し倒す方がそれっぽくていいんだけどなぁとか思ってしまう。←変態です。

ブラジャーのホックみたいな構造になってればいいのにね、直衣も。

馬鹿だなコイツ、と笑って下さい(・∀・)真性のアホです、認めますともww


amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by ざ・ちぇんじ! (第1巻) (白泉社文庫) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル




とりあえず氷室さんはさすが、山内さんは上手い、の一言に尽きます。小説版読んだことないけど(^_^;)

以前とりかえばや物語とざ・ちぇんじの比較をする優良サイト様があったのだが、見つからない。閉鎖しちゃったのかな。
2012-11-10

玉藻前

2011/08/30 07:39 参照数62

私はあまりこの妖怪について詳しくないのですが、なんでもモデルは美福門院得子という説があるそうで。

wikに「玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)である。」とはっきり書いてあります。

そこまで言い切っちゃっていいのかよ、って感じなんですが

でもこれでちょっと合点がいきました。

美福門院が「類稀なる美貌の持ち主」と言われるのは、きっとこの玉藻前と混合されているからなんですね。

玉藻前は「大変な博識と美貌の持ち主」だそうで、妖怪というのならそれもわかりますが、それをモデルとなった女性と混合させるのはねぇ。

ちょっと納得がいきませんがな。

しかもこの玉藻前は酒呑童子、崇徳大天狗と並んで日本三大悪妖怪とされているそうで。

あるいは中世三大妖怪だったかな(どっかでみた)。

崇徳天皇を酒呑童子とかしょぼい妖怪と一緒にすんなや。

っつーかwik、絶世の美少年であったことをそんなに強調せんでも

崇徳天皇は日本国最凶の怨霊だぞ
2012-11-09

血の血書はあったのか、なかったのか

2011/08/07 01:10 参照数62

「文芸編集者ぶっちゃけ覆面座談会」という特集が目当てで買ったサイゾー7月号

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by サイゾー 2011年 07月号 [雑誌] の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



に、こんな記事が載っていました。
「不敬!?天皇怨霊本の怪しい世界」

雑誌の中では「天皇の怨霊で国家転覆」!?密かに好まれる‘皇室怨霊本,と題され、様々な著書に触れながら怨霊について語られています。

「天皇はなぜ生き残ったか」の著者である本郷和人氏は、怨霊説に批判的です。
歴史学者としては当然の意見なのかもしれませんね。

反して「逆説の日本史」の著者である井沢元彦氏は歴史学界の「権威主義」「史料至上主義」「歴史の呪術的側面の無視ないし軽視」の三点を批判しています。

どちらの味方をするわけでもないのですが、「逆説の日本史」シリーズは私はあまり好きではありません。
いくらなんでもそれはないだろうということが多すぎるためです。
叩き台、ネタ探しとして需要はあるのかもしれませんが、私はその無鉄砲とも言える書きぶりがあまり好きではないんです。


話のメインは崇徳院。さすが日本国第一の怨霊といったところでしょうか。

崇徳院に関する有名な本は二冊あって(これは私見ですが)、一つは「崇徳院怨霊の研究」

崇徳院怨霊の研究
思文閣出版
山田 雄司
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 崇徳院怨霊の研究 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


もう一つは「怨霊になった天皇」

怨霊になった天皇
小学館
竹田 恒泰
amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 怨霊になった天皇 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


どちらも崇徳院の怨霊について詳細に調べられています。

「崇徳院怨霊の研究」では、
①「崇徳院怨霊説」が広まったのは承久の乱以降であり、後鳥羽院の怨霊化に伴って流布された影響が高いこと
②崇徳院が俊成に送った和歌や他の和歌などから見ても、都に帰りたいという望郷の思いを綴った和歌が多く、朝廷を恨む気持ちなどはあまり感じられないこと。
といったことを背景に、血の血書はなかったという説をとられています。
数年前に国会図書館で読んだのでちょっとうろ覚えです。
販売してくれたら高くても買うのに…。

追記:大河効果なのかアマゾンのマーケットプレイスで何冊か出てました。買うといっておきながら、高価格なので買ってません(^_^;)。なんかスイマセン(汗)。

値段もさることながら、内容といい、出版社といい、相当発行部数が少なかったんでしょうね。

「怨霊になった天皇」では「吉記」の記述などから、消極的な理由で血の血書は「あった」という説を唱えられています。
こちらも立ち読みなのでちょっと自信がありません(じゃあ書くなって話ですよね…。スイマセン)。
というかこの方角田文衞氏の「待賢門院璋子の排卵日予測(待賢門院璋子の生涯ー椒庭秘抄ーより)」を怨霊説の中の一つの根拠としておりまして。
実は白河院の実子だったから怨霊にもなったんだといったことを書いておられるのですが…。
2011年現在、歴史学者の中で角田氏の研究をもって崇徳院=白河院の胤子で確定とされている方ははほとんどいないと思われます。
1999年初版の保立道久氏「平安時代」の中では「鳥羽と璋子の間に第一皇子として生まれた崇徳天皇は、実は白河の胤であるということが、確実視されている。」となっています。
しかし、2003年初版の「白河法皇」のあとがきで美川圭氏は角田氏の叔父子説を確定事項ではないとされています。
角田氏の説に対する反証論文が出てきて欲しいものです(すでにあったら誰か教えて下さい)。
というか、発表されてから二十年近く経つのに歴史学者の方たちが誰もそれを信じて疑わなかったことに私は驚きを禁じえません。
女性の生理の問題とか、なかなか足を踏み入れづらい領域だったのでしょうが、もう少し何とかならなかったのでしょうか(^_^;)

血の血書はあったのか、なかったのか。
私は「なかった」と思います。
心情的には院を不幸にした人間を呪って欲しいぐらいですし、小説的にはその方が面白いと思います。
ですが怨霊説流布の系譜を丹念に研究された山田雄司氏の説の方がしっくりくるのです。
「あるものをあると証明することは容易いが、ないものをないと証明することは難しい」という前提のもとに提示されている竹田恒泰氏の説は、イマイチ説得力に欠けます。

そんな竹田氏ですが、この本は結構良書だと思います。

amazon.co.jpで買う
Amazonアソシエイト by 日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか (PHP新書) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル


書かれていることの大半は「皇室の大切さ」なのですが、本のタイトル内容と丸っきり分断されているというわけでもなく、両者がとても自然につながっています。
なぜ日本が人気があるのか、につながる問題でもありますしね。
脈々と続く皇室は。
本のタイトルはやはり売れるために練られたもののようで、あとがきで他の方に付けてもらったことが記載されています。


ちなみに私は女性天皇はアリだと思いますが、女系天皇には反対です。

皇室は大切にするべきだと思ってます。

歴史小説を書くことや、天皇をキャラ化することが不敬に当たらないとよいのですが。
2012-11-09

愚管抄を読む

2011/04/01 23:59 参照数47

愚管抄巻第四 公実摂政を望むこと

鳥羽院踐祚(せんそ)の時、御母は実季の娘なり。

東宮大夫公実は外舅にて攝簶(せつろく)の心ありて、「家すでに九条右丞相(うじょうしょう)の家にて候。身大納言にて候。未だ外祖外舅ならぬ人踐祚にあいて攝簶すること候(さうら)わず。さ候わぬたびたびは大臣・大納言などにその人候わぬ時こそ候へ」と白河院にせめ申しけり。

我が御身も公成の娘の腹にて、ひき思し召す御心や深かりけん。

思し患いて御案あらんとや思し召しけん。

御前へ人の参る道を三重までかけまわして、御とのごもりけり。

その時今日すでにその日なり。

未だ催しなんどもなし。

こはいかにと驚き思いて、その時の御後ろ見、さうなき院別当にて俊明大納言ありければ、束帯を正しくとりそうぞきて参れりける。

御前様の道みな閉じたりければ、こはいかにとてあららかに引きけるをうけ給わりて、かけたる人いできて、こうこうと言いければ、「世間の大事申さんとて俊明が参るに、猶かけよと云う仰せはいかでかあらん。ただ開けよ」と言いければ、皆開けてけり。

近く参りてうちしはぶきければ、「たそ」と問わせ給うに、「俊明」と名乗りければ、「何事ぞ」と仰せありければ、「御受禪の間の事いかに候やらん。日も高くなり候へば、うけ給わり参り(候)。いかが。」と申ければ、「その事なり摂政はさればいかなるべきぞ」と仰せありて、「左右無く元の如しとこそはあるべけれ」と仰せられけるを、高々とさうなく稱唯(えしょう」して、やがて束帯さやはらとならしてたちければ、そのうえをえともかくも仰せられず。

やがて殿下に参りて、「例にまかせてとく行われ候べきよし御気色候」と申て、ひしひしと行われにけり。

元の如しとこそはあるべけれども、「公実が申ようは」など仰せられんと思し召しけるを、あまりに、こはいかにあるべくもなきことかなとかざどりて、「いかでかさる事候べき」と思いけるにや。

九条右丞相の子なれども、公季をもひもよらで、その子む孫実成、公成、実季と五代までたえはてて、ひとえの凡夫にふるまいて代々をへて、摂政にはさようの人のいるべきほどのつかさかは。

さる事は、又昔も今もあるべきことならずと、親疎、遠近、老少中年、貴賤、上下、思いたることを、いささかも思し召しはづらうは浅ましきことかなと思いけるなるべし。

さりとて公実がらの、和漢の才に富みて、北野天神の御あとをもふみ、また知足院殿に人柄大和魂のまさりて、識者も実資などように思われたらばやあらんずる。

ただ外舅になりたるばかりにて、まさしき攝簶の子む孫にだにへぬ人おおかれ。

いかに公実もさほどには思いよりけるにか、又君も思し召し患うべきほどのことかはにて、この物語はみそかごとにて、うちまかせて世の人の知りて沙汰(す)ることにては侍らぬなめり。

されどせめて一節を思いて家起こさんと思わんも我身になりぬれば誠に又大臣・大納言の上﨟などにて、外祖外舅なる人の攝簶の子む孫なるが、執政の臣にもちいられぬことは一度もなければ、さほどにも思いよりけるにや。

あまねき口外にはあらねどもかくこそ申しつたえたれ。


〈意訳〉
鳥羽院が踐祚(せんそ)した時、その鳥羽院の母は実季の娘であった。

東宮大夫公実は外舅(公実は実季の娘苡子の兄)であったため、攝簶(せつろく)の地位に就きたいという願望があった。そこで「我が家系は九条右大臣の家系でございます。私自身は大納言でございます。未だ外祖外舅でない人が踐祚において攝簶したことはございません。そうでなかった場合もございますが、それは大臣・大納言などにそういった人がいなかった場合でございます」と白河院に申したてた。

我が御身(白河院のこと)も公成の娘(茂子。苡子の叔母)の腹に生まれたので、贔屓する御心が深かったのでしょうか。

思い煩っていい案はないかと思っておりました。

御前へ人の参る道に続く戸を三重にかけまわして御休みになった。

その時が今日すでにその日(摂政を決める日)であった。

未だ会議などをすることもない。

これはいかにと驚き思って、その時の御後ろ見(後見役、指南役のことか)に文句のない白河院の別当である俊明大納言がいたのだが、衣冠を正しく着、正式の装束をして参った。

御前様の道がみな閉じている様子を観て、これはどうしたことであろうかと荒々しくお引きなさる(戸を引いたのか、このあたり訳に自信がない。もしくは単純に「ひきうけなさる」としたものか)上で、走って来る人も出てきて、こうこうと言ったなら、「世間の大事が決定されるときになって俊明が参るに、猶かけよ(締め出される、等の意か)という仰せはどういうことであろうか。ただ開けよ。」と言えば、皆が開けた。

(俊明が)近くに参ってわざと咳払いをしたから、(白河院は)「誰だ」と問わせなさった。「俊明」と名乗りければ、「何事ぞ」と仰せがあった。「御受禪の間のこといかになさるおつもりですか。日も高くなっております。(決断を)承りに参りました。如何。」と申したなら、「その事である。摂政を誰にするべきか迷っておるのだ。」と仰せがあって、「勿論元の通りあるべきです」と仰せられたのを、(実務を取り仕切る役人が)声高に文句なく、はたと承って、やがて(俊明は)束帯をさやさやと衣ずれの音をさせて席を立ったが、その以上は何とも仰せられなかった。

やがて忠実のところに参上して、「いつもの例の通り施行せよとの御指図がありました」と言い、ずんずんと実行された。

元の通りにとあるようですが、「公実が言うようには」などと仰せだされようと俊明は思われていたが、白河院が躊躇されている様子だったので、意外にこれはどうもそんなことがあるはずがないと形勢を察知して、「どうしてそんな事があろうか」と俊明は思われたのであろうか。

公季は師輔の子ではあるが、摂政関白にはとてもなれなくて、その子実成、孫の公成、実季と五代までしっかりした人物は絶え果てて、一途に普通の公卿として振舞って、世々を経過して、公実の世となったのであるから、摂政の官位にはそんな人がなるべきであろうか。

去る事は又昔も今も有るべきことではなくて、親しい人も疎い人も、縁戚の人も近戚の人も、老少・中年、貴賤、上下のあらゆる階級の人が皆同じように思ったことを少しでも白河院が思い煩われるのはあきれたことと俊明も思われたであろう。

どうあっても又公実の人柄が和漢の才に富んでいて、北野天神(菅原道真)の後をおそい、又知足院殿(忠実の事)に人柄や世間的な才能が勝って、見識ある人からも小野宮実資などのように思われることがあったであろうか。

ちゃんとした摂関の子、孫位の隔たりで、ただ外舅になっただけの人が多い(この部分誤説があるか)。

どうして公実もそんなに思いこんだのであろうか。又白河院も思い煩う程のことであったであろうか。なお、この物語は内緒事として、大っぴらに人が知り噂することではないらしい。

けれどせめて一仕事なりと思って家を興そうと思ったのも、当人の身にとってみれば、(公実は)本当に大臣・大納言の上﨟などで、又外祖外舅であって、摂関の子孫である人が、摂政関白として政治をとらないという事は一度もないから、自分も思いよったのであろうか。

ひろく世間に口外されていることではないけれど、こういう風にひそかに申し伝えている。



wikでは『「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」と白河院別当の源俊明に一蹴されたという話がある。』と書かれていますが、俊明はそんなこと言わずに早々にその場を立ち去っている気がするんですが…。
緑色の部分は慈円の所感では?という事を言いたいがためだけにこの記事を書いた私もどうかしています。

いや、確かに紛らわしいし、私も一時期思い違いをしていたんですけれども。でも元木先生の「藤原忠実」でもそんなことは書かれていなかった気がするよ?

以前書いた記事「藤原公実」ではこの事を書いたんですが、アクセス数があまり伸びなくってさ。藤原実季なんかはwikの次にうちのブログが出てくるし(実季さん、アンタどんだけマイナーなんだ)、アクセス数も割と多いのに。公実さんは割とメジャーな人物と言う事なのか。三清華家の祖だしね。実季さんの記事で懲りてせっかくちゃんとしたのを書こうと思ったのに。残念。


蛇足ですが、小説にもwikの話をベースにした別バージョンがあったんですよ。

 公実は失望した。俊明卿の言葉にではない。院の表情に、安堵の色を読みとったからである。元より摂政に任ずる気がなかったのなら、この私本人に言うのが筋と言うべきではないのか。今まで精神誠意尽くして参ったのは、一体何だったのか。公実は俊明の朗々とした長い弁舌を黙って聞きながら、一人うなだれていた。

公実さん、女々しすぎますかね。ホントはもっと恰好良く書けたらよかったのに、ゴメンナサイ。


ちなみにこの事件は愚管抄以外には載っていません。現存する公卿日記には一切書かれていないんです。

殿暦…藤原忠実の日記。当事者なのに非常にあっさり決まったかのように書いてある。書くことが憚られるぐらい不愉快だったか、子孫の手前体裁を保とうとしたものか。

水左記…源俊房の日記。忠実が失脚すればスッキリはしたかもしれんが、政治的にはどう考えていたんだか。この人もこの件に関しては完全に蚊帳の外状態だったと思われ。

中右記…藤原宗忠の日記。忠実と親交が深い半面、公実とも交流があったので、内心では複雑な思いだったのかも。でもたぶん忠実寄りの人間。

為房卿記…勧修寺流藤原為房の日記。公実の正妻である、光子の兄。公実が摂政になれば自身にとっては好都合だけれど、他の公卿の賛同を得られるかどうか冷静に分析してそう。
ちなみに次男の顕隆は保安2年(1121年)に忠実が白河院の怒りを買って関白を罷免された際に、白河院が忠実の叔父家忠を関白にしようとしたのに対して、忠実の息子の忠通を関白にするよう申し立てています。
為房もその気になれば白河院に申し立てをすることが出来たと思うけれど、まずは静観。そしたらそうこうしているうちに俊明がやって来て事は済んでしまったという事なのかもしれん。

追記:
公卿日記には書かれていないのに愚管抄には書かれていることって結構ありますよね。能信の後朱雀天皇への進言とか。当時としてはどうでもいいことや、書くのが憚られることは日記に書いていないんだと思います。

公実さんが摂政就任を希望したことは、なぜ日記に書かれていないんでしょう。特に当事者に近い忠実・為房。慈円がもったいぶって「これはみそかごとです」と言っているあたり、ちょっと不思議です。

公実さんが摂政就任を希望したことについてはどの本でも軽~く流されているのですが(でも扱ってもらえるだけ良いのかもしれん)、その歴史的な意義に比して扱いが軽いなぁと思わないこともありません。

この件は御堂流にとっては大打撃でした。摂関の地位の決定権が御堂流内ではなく院に移ってしまう事が確定してしまったのですから。それまでも信長から師実への政権譲渡などで天皇・院の介入はありました。しかし、この件は御堂流自体の危機です。この件によって名実ともに摂関を担う「家、家系」である「摂関家」が確立されました。(それまでには「イエ」という概念はあまり定着していませんでした。)が、その権力・権威は大打撃をくらいました。摂関の人事権に天皇・院が口を挟めるようになったわけですからね。

元木先生は著書「藤原忠実」で忠実の摂政就任は妥当だったというようなことを書いておられましたが(本が手元にないので引用できない)、本当にそうなんでしょうか。慈円は忠実の孫なので軽く公実さんをこきおろしていますが(笑)、慈円以外の人がこの件を書いていたのなら、果たしてどのような文面になっていたものか。

また、俊明が参上していなかったらどうなっていたのかと妄想せずにはいられません。鳥羽天皇が成人したら御堂流と閑院流で火花が散ることになるのかなぁとか。でもやっぱり公卿社会では受け入れられず、花山天皇と義懐(よしちか)みたいになるのかなぁと考え直してみたり。でもそこは専制君主白河院の威光で何とかなるような気も。
それに、忠実もこの当時は人望があったとはとても思えなかったり。名門の子弟ということで何とかやっている感じ。

なお、忠実も後年には頼長の嫁に徳大寺家(閑院流の支流)の娘をあてがっています。昔の遺恨は忘れて、ということなのでしょうか。

公実さんが摂政就任を望んだことについて、論文などがあればいいんですけどね。誰か書いてくれる人いないかなぁ。
2012-11-09

華族と貴族

2011/02/20 13:29 参照数67
 
私は華族が好きです。

明治・大正・昭和を席巻した特別な階層にいた人々に、強く心を惹かれます。

‘高貴な家柄,というものに興味を抱くのかもしれません。

平安時代がそうであるように。

そしてその‘特権階級,に座する人々が滅びゆく姿や、華族の醜聞やスキャンダルを読むのが好きです。

滅びの美学。貴いのもが汚されることに、一種の暗い欲望が刺激されるのかもしれません。


華族のルーツをたどると、公家華族は平安時代・院政期に大体辿りつきます。

この両時代はおそらく‘家格,が決定された時期だったと言えるでしょう。

五摂家の祖である藤原忠通、三清華家の祖である藤原公実、花山院家の祖である藤原忠雅。

皆平安時代・院政期を生きた人物です。

平安時代も中期、本来の嫡流筋であった小野々宮流、中関白家などが時代が早かったために‘家,を興せなかったことは非常に残念なことです。

院政期でも太政大臣まで極めた藤原師長の家系が‘家,を残せなかったことも悲しいです。

華族と平安時代・院政期が好きな私は、人物の末裔をチェックしたりします。


例えば藤原道長の第二夫人の子である頼宗。
その子孫は中御門流と称されますが、羽林家他どまりなのがちょっと悲しい。
やはり平安時代や院政期、果ては鎌倉時代に活躍した人でないと上に行くのは厳しいのね。清華家の人たちは上手いことやったなあ。
でもこの一族には摂関家嫡流の藤原忠実の母となった女性・全子がいたりして、上手いことその血を摂関家に入れたりしてるからまあいいのか。
藤原伊通もいいキャラだったのに、子孫が栄えなくて残念だね。

と、こんな風に。


そんなわけで私の好きな閑院流と近代の華族がつながったときの喜びようと言ったら(^^ゞ

点と点がつながったようで、大変嬉しかったです。しかも公爵家!清華家の一つ、大炊御門流にも公実の娘の血が入ってるし。

新・平家物語で待賢門院役をやっておられた女優の久我美子さんは久我家の侯爵令嬢でした。通親の後裔だと思うと、なんだか親近感が増します。

若干系図オタク入ってます(笑)

でもこんな楽しみ方をしてもいいんじゃないかな、とも思います。

歴オタとして。

参考になった本を上げておきます。


華族
楽天ブックス
商品副データ近代日本貴族の虚像と実像中公新書小田部雄次中央公論新社この著者の新着メールを登録する発行





華族家の女性たち
楽天ブックス
小田部雄次小学館この著者の新着メールを登録する発行年月:2007年04月登録情報サイズ:単行本ページ





華族誕生
楽天ブックス
商品副データ名誉と体面の明治中公文庫浅見雅男中央公論新社この著者の新着メールを登録する発行年月:19


2012-11-09

源有仁室

2010/09/27 20:06 参照数105

藤原公実の娘。光子との間の娘ではおそらく三女だが、通称は二の君。これは光子が公実の正妻と世間に認知されるようになった時期と関係があるように思われる。
鳥羽天皇の乳母を務めた長女実子は、他の姉妹とは年の離れた認知前の娘であったか。

角田文衞氏は独自の研究により、康和元年(1099年)頃の生まれと推定されている。
没年は仁平元年(1151年)九月二十二日。

今鏡によれば歌人・能書家。有仁や女房たちの恋の手助けをする、情交を解する人であったという。十訓抄にもそれを表すエピソードがある。
 
  〈和歌〉
父の遠忌の日に詠んだ歌
かぞふれば昔語りになりにけり別れは今の心地すれども

 おほいまうち君(有仁の事)かくれ侍りて、またの年、鶯の鳴くを聞き詠み侍りける
こぞの春なきつくしつと思ひしに世をうぐいすの音こそかはらね 

 〈今鏡のエピソード〉
鳥羽帝の折り、有仁が菊を献上したとき、菊に薄様に書いた手紙が結び付けてあるのが見えた。
帝はそれに気づいて蔵人に命じとってこさせた。
有仁はとっさに北の方の手紙であることに気づいて、顔色も変り、伏し目がちになっていたうちに、帝は手紙を広げて御覧になった。
そこには「九重にうつろひぬとも菊の花もとのまがきを忘れざらなむ(宮中に移し替えられてしまっても、菊の花よ、咲いていたもとの垣根を忘れないで欲しい)という和歌が書いてあった。

北の方は后の姉君であったので、一緒に宮中に出入りすることがあり、その折に忍んでお逢いすることなどもあったのだろう、というもの。



「かぞふれば昔語りになりにけり別れは今の心地すれども」という和歌。
古語をあまり使っていないせいか、ストレートに気持ちが伝わって来てスキ。

今鏡のエピソードの時、有仁は17~21歳であったそうな。17歳とかだったらもうちょっとコドモでいて欲しいです。精神的に(←何それw)。

早く大人にならなければならない立場にあったと思うので。宇多田ヒカルじゃないけれど、大事なものを置いていってしまわないように。

なんていうか、見せかけの自分を作り上げて周りに対してバリアーを張りたい、っていう時期があると思うのですよ。もう一人の自分っていうか。でも誰に対してもそれでいたら、自分が疲れちゃう。だから友なり恋人なり、心を許せる人を作ろうとする。心理学的にはなんていったかな、忘れちゃった。ともかく思春期から青年期にかけてありがちなことです(^_^;)

有仁にとって、心を許せる人が一人でもいたらいいなあ。それにあたるのが北の方だったりするのかなあ、と思って「-有仁と北の方-」シリーズは書いてみました。もう一話書くかもしれないし、書かないかもしれない。
北の方はおつむはあんまりよろしくないけれど、なんていうかセンスのある人。頭ではなく感覚的に有仁のことが理解ってしまう人。

実際は何にも考えてなかったような気もするんですけどね、この女性(笑)。
でも今鏡は
「いと優なる御なからひになむありける」
って伝えているし。

これは実際にそうだからなのか、こんなエピソードもあるけれど仲は良かったんですよ、ってフォローのつもりなのか、実際のところは本当にわかりませんけど。

それでも北の方は自分の兄弟を有仁の催した会に招待(たぶん)したりしているし、有仁のサロンを評判にもしているし、けっこういいコンビだったんじゃないかなぁ(コンビ、って言い方が適当な気が。ある時点で男と女ではなくなっているっぽいので)。

しかし、有仁と鳥羽院はこの一件もそうだけれど、世が世なら嫌~な空気が流れそうな間柄なのに、危機感が全く感じられないのがすごいよな。衣装や化粧で競争したり、なんか好敵手って感じで楽しそう。
なんでだろうね(笑)?


   参考文献
角田文衞 1985 待賢門院璋子の生涯ー椒庭秘抄ー 朝日新聞社
竹鼻績 1984 今鏡 講談社
東京大学史料編纂所 1939 大日本史料第三編之九 東京大学出版会
2012-11-09

堀河後宮

2010/09/24 21:11 参照数24

苡子亡きあと誰も後宮に入らなかった堀河後宮も、後一条後宮と同じくらい謎。

いくら摂関家に適当な子女がいないからって、そのままにしておくか?

おおっぴらに愛することのできる妃のいなかった堀河帝が単純に可哀想なんですけど。

その理由は学術的には「白河院の篤子内親王への義理だて」にしか求められないわけだが。
苡子の入内は皇子をもうけるためだけのもので、決してあなたをないがしろにするわけではありません。
なので皇子をもうけた今、他の妃を入れることはいたしません。的な。

あのあたりの後宮の雰囲気とか、わかる本があればいいのになぁと思います。


ただ、院政期とその少し前の時代の後宮って、執政者の思惑に左右される部分が大きかった気がします。

中関白家の道隆は定子以外は後宮に入れることを認めなかったけど、道長は認めたし(本音では入れたくなかったんだろうけど)。

このあたりの時代は「後宮」というものの制度や格式が整うまでの過渡期、ともいえるのかな。

鎌倉時代以降になると、后になれる家柄は決まってくるしねぇ。
2012-11-09

藤原公実

2010/09/12 18:31 参照数35 ブログ気持ち玉「なるほど」×1

平安時代の公卿、歌人(勅撰和歌集に57首が入集)。
藤原実季の長男。母は藤原経平の娘。弟妹に保実・仲実・苡子(鳥羽天皇生母)がいる。
鳥羽天皇即位の折、外伯父であることをもってして摂政に就任することを望む。白河院は悩んだが、俊明の強引な参内に気押される形となり、摂政には忠実が就いた。
このことに関し、愚管抄の作者慈円は九条右大臣(藤原師輔)の子孫とはいえ五代もの間ひとえの凡夫(摂関の地位にない普通の公卿)としてふるまってきた人物が摂政に就くのは望ましくない、親疎の感情だけで摂政を決めようなど、俊明もあきれたことであろうと書いている。

 〈略歴〉
天喜元年(1053年)出生
延久二年(1070年)十月左兵衛佐
            十二月禁色を許され蔵人
延久五年(1073年)正月左少将
承保二年(1075年)正月中将
            二月兼中宮権亮
承暦四年(1081年)正月蔵人頭
   五年(1082年)正月兼美作権守、同日従三位
永保三年(1084年)十一月正三位
応徳三年(1086年)二月備後権守
   四年(1087年)正月兼皇太后宮権大夫
寛治二年(1088年)正月従二位
   三年(1089年)正二位
   五年(1091年)正月兼右衛門督
康和二年(1100年)七月権大納言
   五年(1103年)八月兼春宮大夫
嘉承二年(1107年)七月十九日大夫を止む
            十一月十四薨ずる

 〈所生の子女〉
妻:藤原光子
  実子 藤原経忠室、鳥羽天皇乳母
  覚源
  公子 藤原経実室
  通季 西園寺家祖
  仁実
  実能 徳大寺家祖
  源有仁室
  璋子 鳥羽天皇后待賢門院
妻:源基貞の娘
  実隆
  実行 三条家祖
妻:藤原通家の娘
  季成
妻:藤原永業の娘
  実兼
妻:藤原実政の娘
  藤原経実室


基本フェミニストの優男(女々しいといってもいいかもしれない)。
私の公実さんのイメージはこんな感じです。

公実さんて尊卑分脈に載っているだけでも娘は6人いるんですよ。実際はそれよりも多かったと思う。
だからちょっと不思議なんですよねー。なんで堀河帝の後宮に娘をやらなかったのかと。
母親の身分が低くても、女房としてでも送りこんでおけばいいのに、と。
ただでさえ堀河帝の御代は鳥羽帝しか後継ぎ候補がいないんだし。

光子が乳母として「私どもの方にもそれはそれは美しい娘がおりまして…」とかナントカ堀河帝を上手く言いくるめりゃいいのに、そうしなかったのはなんでだろうかと。
白河院も篤子内親王の手前下手に動けないということもあったもしれんが、にしたってねぇ。
白河院が重祚したとしても、その後が続かないじゃないですか。

娘を後宮に上げる意思を示すのは他の公卿たちの手前避けたかったのか、
あまり目立つようなことはしたくなかったのか、
それほど大それた野心を抱いていたわけじゃなかったのか。
でもそうすると最後のあの行動だけが浮いている気がするのだな。
もしくは飲水病を患っていたので捨て身の賭けをした、とか?

後代視点で見るとちょーっと中途半端なんだよねぇ。
そこはやっぱり優しさや気の弱さからくるものであったのかな?というのが個人的な見解です。

他の公卿(特に俊明)からしたら「己は和歌と女のことにだけかまけておればいいんじゃボケー」って感じだったのかも(笑)。


それともう一つ。
今鏡にある一文「みめも清らかに、和歌など詠み給うと聞こえ給ひき」
論文や小説などでよく引用される一文なんですが、「清ら」という表現は美しいの最上級表現なんだそうです。(←注目するとこそこかいな)
今鏡をざっと見てもこの表現が使われているのは公実、通季(公実と光子の子)、兼長(頼長の子)だけ(←何かと影の薄い兼長の株がちょっと上がったんじゃない?)。
作者は「清ら」と「清げ」をあまり意識してなかったのかもしれませんが、こんな知識をお一つ(^_^)


   参考文献
角田文衞 1985 待賢門院璋子の生涯ー椒庭秘抄ー 朝日新聞社
中村幸弘(編) 1999 ベネッセ全訳コンパクト古語辞典 (株)ベネッセコーポレーション
元木泰雄 2000 藤原忠実 吉川弘文館
竹鼻績 1984 今鏡 講談社
東京大学史料編纂所 1939 大日本史料第三編之九 東京大学出版会
2012-11-08

今年の雅楽公演

2009/10/12 23:48 参照数9

日本雅楽会の雅楽公演、今年の題目は「『記紀の歌舞』 和琴の響き」だそうです。
「古事記」「日本書紀」に出てくる「久米舞(くめまい)」を観ることが出来るんだとか。
http://www.nihongagakukai.gr.jp

昨年の公演でアンケートに記入したら、丁寧な案内状を頂きました。
ありがとうございます。

四人の舞人が太刀を抜いて舞うという「久米舞」。
仕事が休みだったら観に行きたいなぁ(うちはシフト制)。

筑摩書房から出てる「栄花物語」を借りて読んでいるので、余計に雅楽が聴きたくなります。
与謝野晶子訳のは読みやすくて面白いです。大分意訳されてるようですが。
全篇が一冊で収まっているというのは魅力的。でも結局原文と読み比べたくなりそうなので、購入はやっぱりパスだな。
手元に置く資料はなるたけオーソドックスなのがいいです。
2012-11-08

気になる小説

2009/05/27 18:36 参照数47

「源為義の母」という論文に取り上げられている「生きている義親」という小説が気になって仕方がありません

まず「源為義の母」という論文そのものが素敵です。

「最近、著者は南条範夫氏の推理小説『生きている義親』の存在を知り、大変興味深くこれを通読した。」
という日記風の始まりにまず「あ~、やっぱり角田先生だわ~(*´∇`*)」とつい頬がゆるんでしまいます。
小説から得た発想だということをきっぱりはっきり書いてしまうトコロに角田先生の角田先生たる所以があるんでしょうかね。(言ってることがよくわからん)


※こっからネタバレあり(っていうかバラさないと記事になりません。スイマセン)


(論文の本文より抜粋)
南条氏によると、「八幡太郎義家という最も名誉ある部門の嫡流を継ぐべき存在でありながら、義親が反逆を企てた根本的な理由は、義家が義親の妻に密通して不義の子・為義を産ませたことに対する父親への憎悪ではなかったか」と言う。氏はこの憶測に対して相当な自信を抱かれている。
為義が義家の胤子ではないかという推定は歴史の研究上、無視し難いものであるから、その発案者が歴史学者であろうと、作家であろうと、これに再検討を加えてみる必要性が覚えられるのである。

そして先生お得意の入念な史料分析が繰り広げられ、結論のみを言ってしまえば「その可能性は極めて乏しい」となってしまうのですが、そんなことはどうでもいいのです。素人にとっては。


父親に妻を寝取られてグレる義親!ネタとして素晴らしいです(^-^)
なんかねー、義親って人物像がどうしても思い描けないんですよね。歴史系の本を読んだだけでは。「思慮深さの欠片もない粗野で乱暴な男」というステレオタイプで括っちゃった方がいろいろと収まりがいいのは重々承知しているんですけど。
「義親が討たれた翌年、義親の弟義忠が殺された。その容疑をかけられた義忠の叔父義綱の子義明が討たれ、それに怒った義綱を今度は義親の子の為義(当時14歳)が殺した。」とか事実だけを列挙されても、それが何故起こったのが全くわからないんですよね~。源氏の内紛って、一体何?白河院の陰謀?でもだとすると白河院はどうしてそんなに源氏の家庭事情に詳しかったの?密偵がいたとか?みたいな。そこで思考がストップしちゃう。
公卿日記における「外側から見た武士」の記録と系図ぐらいしか史料がないから自ずと限界があるのかな~。
武士について本格的に勉強しているわけではないので詳しくは知りません(-"-)
やっぱり想像で補うしかないんだろうなー。研究者様がそのあたりどんな想像を繰り広げているか知りたいんだけど、私は読んだことない気がするなぁ。

この血なまぐさい「源氏の内紛」に義家・義親親子の愛憎劇が加わってるとしたら、想像(妄想?)する上でとても助かります♪(助かるってなんだ…)
「義親は何故狼藉を働いたのか?」「親子・兄弟仲が何故そこまでこじれたのか?」これ、源氏の内紛を考える上で重要なキーポイントになると思うんですけど。単に「彼らが武士だから」で終わらせてしまうのは惜しいです。まずはキャラ設定を考えてから事件をひも解いていかないとっ。


奥州の藤原秀衡は息子たちに対し「国衡に異母弟泰衡の母(藤原基成の娘)を娶れ」遺言したらしいですが、それもなんなんでしょうね。息子に自分の妻と結婚しろって、そんな無茶なっ( ̄Д ̄;)みたいな。基成の娘と国衡って歳の差いくつだよ。
王昭君の故事を彷彿とさせますね…。匈奴周辺の地方の慣習が平泉にも伝わってたのか、なんなのか。
2012-11-08

古建築の鑑賞方法

2009/05/15 01:51 参照数66 

歴オタやってると文学やら、雅楽やら、建築学やら、いろんなことに興味がわいてきて困りますね!
図書館でこういう本を借りました。


よくわかる古建築の見方 JTBキャンブックス
JTB
河津 優司



Amazonアソシエイト by ウェブリブログ



寺社建築の鑑賞基礎知識
至文堂
浜島 正士


Amazonアソシエイト by ウェブリブログ



写真が多いのでとても楽しめました。特に「寺社建築の鑑賞基礎知識」は構造の細部に至るまで詳しく説明されており、建築科の大学生や正真正銘のマニアの方にとっても良書だと思います。この本を読めば寺社を鑑賞するときには、

「この寺院は窓が花頭窓だから鎌倉時代以降に建てられたんだろうな。」
「この蟇股(ひきまた)、なんて繊細な木彫り細工。大工の心意気を感じるわ。」
「薬師寺東塔や法隆寺の柱は面をとっていないって本当なのね。平安時代以降の方柱は四方の角を四五度方面に削る切面が取られているっていうけど、こういうことなのか~。」

という観方が出来て、役立つこと間違いなし!


…とはならないですね~。だって人間の頭の容量には限りがあるし、本を見ながら一ヶ所一ヶ所考察してたら日が暮れちゃいます(泣)。やっぱり旅行に行ったからにはいろんなところを出来るだけ多くまわりたいですねー。
寺院を観た感想なんて「なんか落ち着くな~、この閑散とした感じ」「屋根のあたりの細工が綺麗v」「ちょっと変わった形をしてる。面白~い」と、こんな程度っすよ。
一度ハマると脱げ出せなくなっちゃいそうですし、ディアゴ○ティーニから刊行される寺社のプラモデルを毎週買うようになっても困ります(イメージです。実際発売されているかは知りません)。

祇園女御が建立した阿弥陀堂の写真を探したのですが見つからなかったので(残存していないので当たり前なんですが)、小説では比較的近い時代に建てられた浄瑠璃寺をベースに平等院鳳凰堂の豪華さを加えてみました。

平等院鳳凰堂、カラーで見るとホント素敵ですよね~。単色のは10円玉でいつでも拝めるので、あまりありがたみがないんですが(またそんな言い方を…)。学校の教科書では為政者としてよりも、平等院鳳凰堂を建てた人物としての立場の方がフューチャーされてる感のある頼通ですが(なんか道長のオマケっぽいんだよね~)、それも納得です。

祇園女御の阿弥陀堂の様子は「中右記」の長治二年十月二十六日の記事によれば、

「今日院の女御と号(なず)く人、祇園の南辺に建立の一堂において供養の筵を展(の)べ、天下の美麗過差人耳目を驚かす、云々(中略)件の堂祇園の巽(たつみ)の隅に一堂を建て、丈六の阿弥陀仏を安置す、堂の荘厳の体(てい)金銀を飾り珠玉に満ち、華麗の甚だしき、記し尽くすこと能(あた)わず。」

そんなバブリーな(笑)な寺社があったんならお目にかかりたかったわ~。残念。




平安時代後期に、権力者たちが何かにとり憑かれたかのように造り続けた京内の寺院や仏像は、今では全く残っていないそうです(浄瑠璃寺は京都から離れた山中にあるために戦火を免れたのだそうな)。仕方のないこととはいえ、なんだか虚しいですね。
でも過去に建てられた建築物が全て残っていたら、現在の京都には人が住む余地はなかったのかも、という考えがちらっと浮かびました。
老後を京都で過ごすというのは、歴オタ&寺マニアにとっては理想的なライフプランの一つだと思うのですが、どうでしょう。
2012-11-08

祝・「御堂関白記」文庫発売化

2009/05/13 22:11 参照数149

藤原道長「御堂関白記」 上  全現代語訳 (講談社学術文庫)藤原道長「御堂関白記」 上 全現代語訳 (講談社学術文庫)
(2009/05/11)
倉本 一宏

商品詳細を見る

ついに出ましたね~、「御堂関白記」。ネットで注文してまだ手元には届いてないんですけど。大好きです、講談社学術文庫。my本棚の棚一段は群青色の背表紙で占められています。値段の安さから角川文庫に浮気したこともあるんですが、解説&補注の充実度から最終的には学術文庫に落ち着きました。
メジャーな公卿日記といえば中右記・吉記・小右記あたりかな~と思っていたので、ナゼにいきなり御堂関白記?と思わなくもないですが。まぁ小右記は別会社で詳解が出たばっかりだしな。台記も一部では有名だけど、学術文庫的にはNGだろうしね…。「好評のため公卿日記続々刊行化決定!」なんてことになったらすごく嬉しいんですけど、どうなんでしょう。
ついでに言うと「栄花物語」も文庫化してくれないかなぁ。値段もさることながら、三冊(小学館から出てるやつの場合)揃えるとかさばるんだよね…。重いし。う~ん欲張りすぎ?


天皇たちの孤独―玉座から見た王朝時代 (角川選書)天皇たちの孤独―玉座から見た王朝時代 (角川選書)
(2006/12)
繁田 信一

「御堂関白記」を読んで、この本に書かれていることがどの程度信憑性があるのか考えたいと思います…。花山天皇出家事件の黒幕は東三条院詮子、とかね。
不遜な物言いでスイマセン。いや面白いんですよ、この本。藤原道長が引退し、元子が皇子を産んでいた場合の仮想年表が作成されていたり。
元子の生んだ皇子を敦☆親王として表記しているという(笑)。一条天皇の皇子も三条天皇の皇子も敦ナントカという名前がつけられてるもんね。そして年表は
・藤原彰子、藤原重家の後妻に。重家って誰よ(笑)。←注:顕光の息子。
・敦☆親王天皇になり、顕光が関白に。←顕光が関白って、超不安なんだけど。アリエナイ。左大臣あたりが「影の関白」として政治を切り盛りすることになるんじゃ…。
・皇太后藤原元子、女院に。
で終わっています。なんかすごくないですか(笑)?「そうなれば前関白の道長入道などもはや過去の人でしかなく、その娘である彰子は公卿の誰かと結婚することが出来れば上等であっただろう(本文)」だそうですよ。


でもね

この本よみものとして読むには語り口が断定的過ぎるし、お遊び的な雰囲気が感じられない。かといって歴史書として読むには論拠に乏しい気がするし、それを裏付けする資料の提示もない。どうも中途半端だなぁと思いながら読み進めていた私に、とどめを刺した一文が。
「一条天皇の最期は、奸臣道長に冷たく見守られながらの寂しいものとなった。『御堂関白記』によると人々の一条天皇を慕う気持ちより廷臣をケガレに触れさせないことを優先する道長は、天皇が今まさに絶命せんとするとき、臨終に立ち合おうとした人々の多くに、その場からの退散を命じたのであった(要約)。
なおそんな道長はその日記に上皇の崩御を記録するにあたり、どうしたわけか、皇族の死を示す「崩」という字を書かずに、どこか楽しげな「萌」という字を書いている。
いや、それは道長か書写した人の書き間違いでしょ(汗)。大体「萌」という字が楽しげな意味を持つのはオタク文化が表面化してきたごく最近のことであって、少なくとも近代以前は「萌芽」や「萌葱」のようにどちらかといえば真面目で堅苦しい表現として用いられていましたってー、と叫びたくなりましたわ…。
自筆本が残っているがゆえに誤字脱字がそのままの形で伝わり、後世の学者からは妙な言いがかりをつけられる御堂関白記の作者ミチナガ。あまり好きな人物じゃないのに、ちと同情しちまいましたよ…。

三国志に親しんでいるものとしては、王朝貴族に「奸臣」を当てはめているのもしっくりこないんですよね。兼家と道長を徹底的に悪者扱いしているとこなんかは、なにやら古臭さを感じてしまいます。
 「息子と嫁の間に跡取りの男児が生まれたことを、我の強い姑(詮子)が喜ぶはずはなかった。」というのもどうなんでしょ。
天皇たちの「孤独」というのも終章でとってつけた感は否めないですねぇ。内容的には「~だと思われている○○○ですが、こんな一面もあるんですよ」と、天皇たちの裏話を紹介している感じです。
項目別の主役は一条天皇、円融法皇、東三条院詮子、花山法皇、上東門院彰子、三条天皇なんですが、どの項目にも一条天皇が登場するので、「一条天皇を取り巻く人々」といった方が正確かもしれません。
とはいえ、同じ路線の院政期版が出版されたら買うと思います。

「保元の乱・平治の乱」を受けて「保元・平治の乱を読み直す」が出版されたように、この本を受けてより研究が盛んになることを期待したいです(弱気)








 …この記事は講談社から「御堂関白記」が出ることを知った時点で書こうと思っていたのですが、その後角川書店からも「御堂関白記」が出されることを知り、目が点になってしまいました。ビギナーズクラシックスからって、ビギナーで御堂関白記を読もうとする人って、そうはいないような…。この時期に出版って、対抗意識でもあんのかなーと下世話な勘ぐりをしちゃうじゃないですか。いやどっちが先に企画したとかそんなことは知りませんが。
そして編者がアノ方ですか。大人の事情ってやつ?
「殴り合う貴族たち」を出された方の書く解説ですから、興味はあるんですよ。読みたいのは山々なんですよ。
でもねぇ。別書で道長のことを「完全なる朝敵」としている人の書く、「御堂関白記」の解説文。その路線のまま突っ走るのか、はたまた前言を翻すのか。どうするんでしょうねぇ、一体…。


源氏物語の時代―一条天皇と后たちのものがたり (朝日選書 820)源氏物語の時代―一条天皇と后たちのものがたり (朝日選書 820)
(2007/04/10)
山本 淳子

商品詳細を見る

「天皇たちの孤独」を読んだら、山本先生の「源氏物語の時代ー一条天皇と后たちのものがたり」が読みたくなりました。綿密な資料分析から人物の心の機微にまで入り込む手法は、見事としか言いようがありません。語り口調は柔らかで、文の一つ一つが美しく、心に浸み渡るようです。



出版業界もこの不景気で大変だとは思いますが、消費者のお財布事情だって厳しいんですよ。歴史関係の本もよっぽど気に入らないと買おうとは思いません。
売れるか売れないかわからない一般向けの本をたくさん出すより、こういう‘ベストセラーとはいかないまでも、ある程度の収入は見込めるマニア向けの本,に集中するのも、戦略としてはアリなんじゃないですかね。アマゾンでは発売日に在庫切れになってましたし、「御堂関白記」。
でも山本先生の著書は別腹(勝手だな)。  
2012-11-08

藤原実季

2009/02/11 00:54 参照数280
 
 藤原実成の子、按察大納言実季について。
摂関政治から院政への過渡期を生きた所為か、とってもマイナーなお人。「大鏡」「栄花物語」「今鏡」、いずれもちょろっとしか出て来ないという

 家系的には閑院流の祖、藤原公季の曾孫。後三条天皇妃茂子の異母兄弟。堀河天皇女御の苡子は娘。
 
 ブログ内の小説「閑院の流れ」では幼名を「小君」としていますが、これは創作です。そんで茂子が「大姫」。単純(笑)。年の離れた異母姉だったと予想しているので。幼名というよりも呼称かな。公成の幼名が「犬君」なのでこれに関連した名前にしようかとも思ったんですが、思いつきませんでした。「猫君」にするわけにもいかんし。「牛若」ならいるけどね。

 長元八年(1035年)生まれ。八歳で父を、十歳で祖父を亡くした苦労人(たぶん)。そのために若い頃は昇進もままならなかったが、後三条天皇が即位したことにより、転機が訪れる。治暦四年、三十四歳で参議。承暦四年には四人の上﨟を越えて、四十五歳で権大納言となる。

 栄花物語の記事は、「月日が過ぎて夏ごろ大臣召しがおこなわれる時、右大将殿(顕房)は例の宮たち(善仁親王、媞子・令子・禛子内親王)の御事を口実に穏やかならぬお気持ちでいらっしゃるのも無理からぬことである。兄の大納言(俊房)が、そうそう先を越されていらっしゃるのも気の毒だし、世の中をお恨みにもならず宮仕えを励み、学才もおありの方が、じっとして奉公しておられるのをさしおいては、どうして他の人を大臣に任じられようかと帝はおぼしめされる。左大将殿(師通)が、関白の御子でありながら、これまで大臣になられなかったことさえ気の毒だし、東宮大夫(実季)は帝の御叔父として大臣を望んでおられる、それも当然のことである。また、藤大納言(忠家)も、最上位の納言として大臣を望んでおられる。だがしかし、源大納言お二人(俊房、顕房)が、左右の大臣におなりになった。関白殿の大将殿は、内大臣におなりになった。二十歳ばかりでいらっしゃっただろうか。(39巻57) 」というもの。

 他にも「古事談」に白河院に豪奢な引出物を贈り、周囲のひんしゅくをかったという逸話があることから、それなりに野心はあったもよう。

 内親王を母に持ち、摂関家とは対立関係にあった後三条天皇にとって、妃の親族である実季は数少ない‘ミウチ,の一人であったと思われます。他に後三条天皇の‘ミウチ,に該当するのは母子ともに長く貢献してくれた能信・能長父子(能信は茂子の養父でもあるが、即位時には故人)ぐらいではないでしょうか。
白河天皇の時代においても、天皇の叔父という間柄から重用されたようです。その死後娘の苡子が堀河天皇のもとに入内していますが、これは天皇の父である白河天皇の意向でした。実季に娘を入内させるという意思があったかは定かではありませんが、苡子の入内時の年齢が二十三歳と当時としては高齢であったことから、積極的に工作することはなかったにせよ、そうした願望はあったと推測出来ます。


 白河院のお気に入りの藤原顕季を養子にしているあたり、「やるじゃん、実季{%指でOKdocomo%}」と思ってしまうのですが。幼少の頃に後見人を失っていることもあって、慎重で目立たないよう努めているイメージがあります。古事談のエピソードはアレですが。娘の入内はもちろん考えているんだけど、摂関家に睨まれるのは得策ではないと判断し、まずは白河院の出方を窺って、ってカンジかな。でも貴重な持ち駒である苡子は、悪い虫がつかないよう超警戒、みたいな(笑)確認できる実子は公実、保実、仲実、苡子のみで、女子は一人だけだし。その女子が見事皇子を生んでいるわけだから、運が良かったよね。といってもそのころにはとっくに実季亡くなってるけど。保実は最終的には権中納言、仲実は権大納言になっているわけだから、出世した方だと思うよ、うん。生前苡子を後宮に入れなかったことに関しては、妻の陸子が篤子内親王の乳母だったという説があって、陸子が反対したのかな、とも考えられるのですが。篤子内親王は堀河天皇の中宮になっているので。実は恐妻家だったの?(笑)子どもたちの母親は全員陸子だし。
系図を見ると、顕季一家、為房一家と婚姻関係で何重にも結びついているのがわかります。為房は公実の妻・光子の兄で、為房の子・顕隆は「夜の関白」とも言われた白河院の近臣。陸子の姉、または妹は顕季の妻になっている。仲実の妻は顕季の娘。孫の実行の妻も顕季の娘、などなど。顕隆の子・顕頼は待賢門院に反感を抱いていたようですが、それには結束してきた三家の中で閑院流だけが名門貴族となっていったことにも起因しているのかなー?と思ってみたり。

 実季に関し、最も注目されるのがその死に様です。
中右記においては「十二月二十四日、(中略)今夜丑時ちかく按察大納言実季卿頓滅、年五十七件の人去る二十二日御佛名初夜所被り参内なり。(中略)橋寺供養のことにかる、本月十七日の条に收(おさ)む、大納言二十四日に及び晩頭、さらに病気無し、経幾程無くすでに頓滅す。然るに此の例未だもって聞かずや、今夜一院と雖(いえど)も御佛名之を停止せむか、院明くる年拜禮(はいれい)行幸ら大略これを止む、同二十八日、正午、彼大納言之葬禮云々、」
為房卿記においては「按察亞相薨事十二月二十四日、戌寅、今日亥刻按察大納言実季卿、薨逝頓滅云々、自晡(ほorひぐれ)時煩い風痾(あorやまい)吸血、幾刻も経ず忽ち以て常に非ざるなり、良臣国を去る、世以て憐愍(びん)、
と記載されています(意訳)。

中右記では病気らしい病気もしていなかったのに…、とのことですが、為房卿記では風痾という「風病」らしい病名が記されています。この時代の「風病」が単なる風邪ではなく、様々な疾患を含む複雑多様なものであることはすでに服部氏が著書「王朝貴族の病状診断」で明示されています。中国の文献「医心方」や「諸病源候論」によれば、風病は風毒によっておこるものであるとされます。また「風諸病源候論」に風病症候として記されている症状は①風、風湿による身体不随②風湿、風痺、風による疼通③歴節風候、脚気④風湿、風頭眩、風邪、等です。服部氏はさらに①は中枢神経系統に属する疾患の症状であり、当時の人々もこのような症状を呈するものを「中風」と称していた。現在中気・中風と呼ぶ病気がこれにあたる、と考察されています。また②は末梢神経系統に属する疾患の症状で、この中に神経麻痺、神経痛を含んでいる。③は今日のリューマチス疾患、あるいは脚家のごときもので、④の中には神経系疾患の症状とともに現今の風、すなわち感冒性疾患と思われるものの症状が記されている、とのことです。しかし、いずれも「頓死」するような病気とは思えません。為房卿記にある「吸血」という箇所も詳細は不明です。ヒルに血を吸わせる治療のことをいったものか、血を吸われたかのように青ざめた様子で息を引き取ったのか。あるいは意味が反転し、血を吐いて亡くなったものか。なんにせよ、突然息を引き取ったこと、その死の不審さが周囲の注目を浴びたことは確かです。毒を盛られたということもありえなくはないのですが、風病を風毒によるものと考えるならば、当時の人は風によって伝えられる伝染病なども風毒の一種と考えたのではないでしょうか。しかし同時期に亡くなった人が多いとはいえないことから、伝染病の可能性は低いと言えるでしょう。血を吐いたとするなら胃潰瘍などが疑われますが、その場合、病気の徴候がもっとはっきりとした形で表れたていたことが疑われます。現存する史料だけでは、その死因はやはり不明です。

「頓死」と聞いて真っ先に毒殺を疑ったんですが、彼に毒を盛る人間が思い当たりませんでした。師通・師実が恐れるほどの存在だったとも思えないし。当時の摂関家に入内可能な子女がいなかったとはいえ、苡子の入内は白河院の意向によるもので、実季がどうにか出来るもんでもなかっただろうし。何か悪いものでも食べたんか{%ふつうの顔webry%}?

為房が「良臣国を去る、世以て憐愍」と書いてくれていてちょっとうれしい。妹が実季の子の公実のもとに嫁している関係で親しかったからかもしれませんが。何はともあれ、実季の人物像を知る貴重な一文です。


 頓死といえば淑景舎女御、藤原原子。三条天皇の東宮時代の女御で藤原道隆の娘。定子の同母妹。
(以下、「栄花物語」より意訳)
 あわれなるこの世に、いかがしたことであろう、八月二十日余日に、聞けば淑景舎女御がお亡くなりになったといういうではないか。「ああ大変なことだ。これは一体どういうことか。まさかそんなことはあるまい。日ごろお患いということも聞こえてこなかったのに。」などと、よくわからないので訝る人が多かったところ、「まことなのです。鼻や口から血を流し、ただあっという間に亡くなられたのです(原文:まことなりけり。御鼻口より血あえさせたまひて、ただはかにううせたまへるなり)。と言う。情けないとか忌まわしいとかいってもありきたりというものである。世の中は無常であるという中にも、格別に情けない御有様である。
 世の人はとかく口うるさいものであるから、宣耀殿女御(娍子)はたいそうな重病であられたのに平癒なさって、淑景舎女御が突然亡くなったという思いがけない有様をもって、「宣耀殿女御が尋常ならざることをしかけもうされたものだから、こんなことになられたのだ。」と、聞きづらいことまで申している。また「ご自身はあれこれとお考えつきになるはずもない。小納言の乳母どうかしたのではなかったか。」と言う人もいる。

 憶測にしては子細に富んでいるから、当時こういったことがまことしやかに伝えられていたのかな?
一服盛られたか…。う~む。どうかなぁ。仮にそうだとしても娍子がやったとは考えにくいよな。中関白家は没落しかかっているし、娍子は東宮との間に皇子皇女を数人もうけているわけだし。乳母や近しい人間がやったことも考えられなくはないけど。
その人たちの心理としては、
長年仕えてきた娍子様が重病で死ぬかもしれない。
→皇子を生んでいるとはいえ国母が不在だと何かと不利。
→原子はまだ若いし、これから皇子を産むこともあるかもしれない。
→原子の生んだ皇子が将来東宮に立つことになるかも。
→今のうちに不安材料は摘んでおかねばなるまい。 
→中関白家の力が弱っている今のうちに…。
みたいな感じ?
動機は自分たちの保身、もしくは姫様への行き過ぎた忠義心ってとこか。
イマイチ現実味に欠けるな…。「栄花物語詳解」では鴆(ちん)毒を用いたのであろう、と記されていますが、これも信憑性に欠けます。鴆は毒鳥の一種で、その羽を酒に浸して飲めば死ぬと言われ、その酒で毒殺することが行われていたそうです。この鳥の実在は疑わしいもので、もちろんこのような毒薬は今日存在していないそうです。「羽を酒に浸して飲めば死ぬ」。鴆という鳥に限らず、羽に毒が付着していたと考えるならば、あながち間違ってはいない気もします。鳥の生息地が火山の麓であれば当然羽には火山灰が付着するでしょうし、ヒ素などは猛毒です。もっともこういった知識は当時でも一部の薬子(くすし)や呪い師ぐらいしか知りえなかったでしょうから、やはり現実的ではありませんね。
当時は怨霊の存在が固く信じられていたから、娍子についた悪霊を調伏した人がライバルの原子にその悪霊をかわりにとり憑かせたとか。もしくはそういった噂が立ったと考えた方が、まだリアリティがあるかも。
推論の域を全く出ない話ではありますがね。
とにかくタイミングが悪かったのよね…。娍子にもちょっと同情。
服部氏は「原子は平素から病気があり、そのため大量の出血(おそらく喀血か、胃潰瘍等における吐血)のため窒息死を遂げたものと考えられる」としていますが、これなら納得がいきます。平素から病気があったなら栄花物語にそのように書かれていたのではないのかな?とは思いますけど。胃潰瘍の主な原因はストレスだし。原子のおかれた立場はかなりキツイものだったと思いますよ。さしたる後ろ盾もないのに、後宮という人々の様々な思惑がひしめく場所で一人戦わなくてはならなかったのですから。頼りになるのは夫である三条天皇ぐらいですが、それも娍子の手前おおっぴらにかばうわけにもいかないしねぇ。若々しくて魅力的な原子のことも、大事に思ってはいたんだろうけど。

 あとは冷泉帝女御で三条天皇生母の藤原超子。
(以下、栄花物語の意訳or要約)
 正月の行事の庚申待(こうしんまち)をしていたときのこと。女房や超子の兄弟たち皆で様々な遊びごとをしていると、超子は脇息に寄りかかって、そのまま寝入ってしまった。明け方になっていたころだったので「何も今頃になってお休みにならずとも。」また一方で「烏も鳴いたのですから、もう今はそのままにして差し上げましょう。お起こし申さぬよう。」などと女房たちが申し上げていると、これということもない和歌をお聞かせ申そうとしてこの男公達が、「もしもし、お尋ねしますが。今になってお休みになられることもございますまい。起きていただきましょう。」と仰るのにまるでお答えがないので、驚いて寄ってみた。「やや。」と声をあげ、普通のようには見えないので引き揺すってお起こし申されたところ、そのまま冷たくなっておられた。大変驚き、大殿油(おおとなぶら)を取り寄せてお見上げ申されると、すでに亡くなっておられるのだった。

 これは心身症による急性心不全のような…。(注:急性心不全は急に心臓が止まることを意味するので、死因が何なのかわからないときによく用いられる便利な病気です。心身症の定義も『身体疾患の中でその発症や経過に心理社会的因子が密接に関与し、器質的ないし機能的障害の認められるものをいう』で、いろんな病気が該当します。なのでそれらしいことをいってますが、実際のところは全くわかってないっちゅーことです(^_^;))
だって、超子が入内したのは狂帝よ?精神的な疾患(と一口に言ってもいろいろだけど)を抱えた相手と寝所を共にするって、相当なストレス、っていうかほとんど恐怖。兼家の鬼~(いや、兼家だけじゃないけどさ。冷泉帝に娘を入内させたのは。)娘を狂帝の下へと遣わす親の気持ちって、一体どんななんだろう…。帝であればそこらへんは問題視しないのか?この時代に生まれなくてホント良かった~{%げっそりwebry%}


 「平安時代不審死考」と題して一本論文が書けそうっすね。私は書きませんが。

 参考文献
美川圭 2006 院政ーもう一つの天皇制ー 中央公論新社
美川圭 2003 白河法皇 日本放送出版協会
朧谷寿 1991 王朝と貴族 集英社
角田文衞 1985 待賢門院璋子の生涯ー椒庭秘抄ー 朝日新聞社
服部敏良 2006 王朝貴族の病状診断 吉川弘文館
橋本義彦 1976 平安貴族社会の研究 吉川弘文館
保立道久 1999 平安時代 岩波書店
保坂弘司 2007 大鏡 講談社
井上宗雄 1975 藤原公実についてー院政期における一貴顕歌人の生涯 臼田甚五郎博士還暦記念論文集編集委員会編  日本文学の伝統と歴史 桜楓社
皆川完一(編) 1998 古代中世史料学研究下巻「中右記」 吉川弘文館
元木泰雄 2000 藤原忠実 吉川弘文館
佐竹昭広他(編) 2005 古事談・ 続古事談 岩波書店
茂原輝史(編) 1980 國文學ー解釈と研究「後宮のすべて」 學燈社
竹鼻績 1984 今鏡 講談社
東京大学史料編纂所(編纂) 1980 大日本史料 東京大学出版会
山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進(校注・訳) 1998 栄花物語 小学館
山下格 2005 精神医学ハンドブック 日本評論社
増補史料大成刊行会(編)  1982 史料大成「中右記」 臨川書店

2012-11-08

ゲンジがたり

2009/01/27 11:55 参照数12

アニメの「Genji」すごいですね。いろんな意味で( ̄▽ ̄;)一話目の初っ端から「えぇ?」みたいなwwあの時代なら服を着たままいたすんじゃないの?光源氏からやたらマセてて怖いし。唇にキスですか…。その様子じゃ先が思いやられますな。先がわかってるからこそのこの設定なのかもしれませんが。藤壷が父親の女御であることを知ってショックを受けたというのにも違和感。子供の頃は藤壷に母を重ね合わせて慕っていたが、大人になるにつれてそれが恋へと変化、という理解をしていたので。劇画タッチだし、なんか「大人の観るアニメ」ってカンジっすね。これでもかってぐらいハイテクを駆使している様が、空回りしているといえなくもないです。当初予定していた「あさきゆめみし」とは大分違うものになりましたね。それが良かったのか、そうでなかったのかはまだ判断出来る段階ではありませんが。一話のインパクトが強すぎたためか、二話は割と普通に観れました。六条御息所が源氏と恋仲になる前からすでに超怖いんですが。ちとやり過ぎでないかい?
これからも観るかはわかんないなー。何とな~く家族には見られたくない番組なんだよな。ヘッドフォンつけて観るか。

「あさきゆめみし」は先日読了したんですが、面白いですねv発行から何十年と経ってもファンが多いのがわかる気がします。原作の面白さを忠実に伝えた上で、マンガならではの表現が光っている。作者の大和和紀さんは源氏物語をものすごく読みこんでいるんでしょうね。とてもわかりやすくて源氏物語への理解が深まります。原作に比してあさきゆめみしの分量は決して多くはないけれど、濃度がすごく高い。読み終えるのにかなり時間がかかりました。源氏物語の惟光はどうでもいいが、あさきゆめみしの惟光は好き。原作ではもっと年配、もしくは若年寄をイメージしていました。おいしいやくどころですよね。空蝉、末摘花の乳母子の侍従の君、紅梅の大臣、修理大夫など、原作ではそうでもないけど、あさきゆめみしでは好き、という登場人物がけっこういます。末摘花は絵でみるとけっこうキツイですね…。これでもかってくらい不細工に描かれています。文章だとわりと愛嬌があるカンジだったのに。昔やった「源氏占い」、末摘花だったんだよな。そういえば。誰かなー♪と綺麗どころを想像していたので、何気にショックでしたf^_^;真木柱が幸せそうでよかった。あと玉蔓は光源氏のこと本気でうっとうしがってた気がするんだけど。冷泉帝の方にはちょっと気持ちがいっていたような。でも気になったのはそれぐらい。
ヘタなこと言ったらファンの方に怒られる、ってか嘲笑われそうなんだよな(-.-;)「素人がなにそれらしいこと語ってるんだよ。プッ。」みたいなww。あさきゆめみしは私なんかが語るまでもない、メジャーな作品ですしね。

映画の「千年の恋ー光源氏物語」に至っては、「吉永小百合を出したかっただけでは?」という疑念が生まれました。金にあかせて好き勝手する男を書きたいなら、別に光源氏じゃなくてもいいじゃん…。竹中直人の明石の入道が強烈でした。まだ源氏物語をきちんと読んていない段階でテレビでこの映画を観たので、その後もこの明石の入道のイメージが中々頭から離れてくれなくて困りました。何故にあんなにギャグっぽいの(+_+)?いや面白かったけどさ…。もっと教養があって奥深い人のはずなんだがな。六条御息所の描かれ方もちょっと納得がいかない。母親の面影を求めて年上の女性に、というわけではなかったと思うのだが。六条御息所はあまり好きじゃないけど、美しくて教養が高くて当代一の貴婦人、というのをもっと出してやれよ…。紫式部と夫の姿もね…。ちょっと型にはめて考えすぎ、な感が。この映画は源氏物語というより、それが書かれた時代にスポットライトをあてているだけみたいだから、これはこれでいいんだろうけど。つか2時間で源氏は無理あるよね(-_-)

私の好きな登場人物ベスト3は紫の上、明石の上、朱雀院かなぁ。夕霧は前半部分だけならトップに食い込んでくるんだけど。途中までがとても良かっただけに、落ち葉の宮との一件が相当のマイナスポイントに。宇治編ではただの偏屈な親父になってるし(´Д`)真面目で堅苦しいって、欠点にもなりうるんですね…。てか源氏物語には理想的な男性が出て来ないよね。夕霧には読者の期待を裏切らせるし。薫も匂宮も好きじゃない…。あの二人ってな~んかアヤシイ。友人と一人の女性を共有するって、ちょっと倒錯入ってるし。この二人に比べたら、頭中将が全然マシに思える(-.-;)薫は世捨て人を気取ってるくせにあちこちで女にちょっかい出してるし。出家する気ないだろ、実は。アンタやっぱり柏木の子だよ…。紫式部って男を見る目がシビアだよね…。そういう意味でも源氏物語は当時の女性の教科書だったのかもしれませんねぇ。
2012-11-07

藤原清輔

2008/12/11 19:44 参照数53

岩波書店の「袋草紙」の解説の一文↓を読んで、がぜん興味がわいてきました!

清輔の博識宏才は、「歌のかたの宏才は肩をならぶる人なし」(鴨長明『無名抄』)、「近代この道を知る者、唯彼朝臣のみ。貴くべし、仰ぐべし。」『玉葉』)とまで賞賛された。同時に、当時の歌合判者として相並ぶ清輔と俊成との二人を比較する『無名抄』の「俊成清輔偏頗事」によると、俊成は自分の誤りを認めて争わず鷹揚であるのとは対照的に、清輔が外面は清廉中庸に見えながら、相手の批判を許さずに顔色を変えて言い募り、周囲はしらけて口をつぐんだという。これは顕昭の話を伝えたものだから、事実に近いと思われる。『袋草紙』の所々に見られる自賛的口吻や頑固さなどに共通する、清輔の意固地な一面をあらわすものであろう。『顕広王記』によると、清輔の死は「酔死」であったという。このことに深くこだわるのも如何かと思うが、和歌考証の道に一徹でありながら戯言を好みナイーヴであった清輔のもう一つの顔が見えてくるように思われる。

ね、愉快な人でしょ(笑)?

『袋草紙』本文の一部を以下に意訳します。

・予、顕広に談かいせしとき、ある人の云う次(ついで)に同じくこのことをもってす。
答えること、「先年基俊の君に相尋ねるところ、答えて曰く、『延喜五年の十八日は上奏の日なり。序は貫之仮名をもって土台を書き、淑望をして草せしめる者なり。しかしてともに興有るによりて、仮名序を棄てず。また上奏以後の歌入るの条、貫之優美なるに堪えず追ってこれを入れるなり。よりて奏覧本には件等の歌なし』と」云々。
予重ねて問いて曰く、「その会釈は正しいだろう。ただし不審二つ有り。一つには、上奏本の系統が世間に伝わっていないのは何故か。次に、優美なものを堪えず追って秀歌を入れるならば、同じく亭子院歌合の貫之の『桜散る』の歌を入れるべきである」。
答えて曰く、「件の歌は古今集に承均(そうく)法師の『桜散る花の所は春ながら』と云う歌に同じ意(こころ)である。よってこれを入れるべからざりしか。」
予重ねて曰く、「この儀ならば、新選集に件の両歌を入れるのの条は如何。」
答えて曰く、「件の条においては力及ばず」と云々。新選集は貫之一人して玄中の玄を選ずるなり。しかして古今に入らざる歌を多くもってこれに入れるは、貫之が意秀逸に存するの由(よし)か。然れば件の歌等進みてこれを入れるべし。この議なおもって指南とし難きか。
 追ってこの事案ずるに、なお基俊の議宜しきか。

三人(顕広・基俊・清輔)寄れば文殊の知恵。いやいや、喧嘩のモト(-_-)
全員で和歌談義をした日にゃー、不穏な空気が漂いそうです。

最終的に基俊さんの説で納得したものの、そこに至るまでには相当考え込んでいたモヨウ。

・予、応保二年三月六日に昇殿す。「来る十三日、中宮の御方に貝合(かいあわせ)のこと有るべし。よりてにわかに仰せ下す所なり。同七日に和歌の題二首を賜う」と云々。「同日に講ぜられるべし風情を廻らし早く初参すべし」と云々。よりて吉凶を択ばず件の夜籍(ふだ)に付け了(おわ)んぬ。御所は高倉殿翌日、御会。東向きの御所月卿(げっけい)両三、雲客数十なり。これを講じて座を立たずして、また題二首を出ださる。範兼これを出す「躑躅(つつじ)路を挟むと云々。「恋」。これ予を試みんが為なり。即時に各々和歌を作り終えたなり。名を隠して歌合はするなり。予殊に召に応じて天子のお傍近くに控えていたなり。然りといえどもなお恐れをなして位階を超えず、範兼・雅重等の下に居り。御簾を上げられ、次第に歌を講ず。かれこれ合い互いに難陳す。範兼は殊に張本として勝負を定める。これを問うに、僻事有りといえども口入することあたわず。しかして半ば講ずる後、勘定に曰く、「清輔は今夜和歌の沙汰を至さじと思うか」と云々。少しき鼻を突く気なり。人々は心々に恐々として間違いの現れるのを待っていたところ、躑躅の歌に「このかのも」と詠む歌出でく。範兼難じて曰く、「このかのもは筑波山の外は詠むべからず。かの山は八方に面有り。面の方に影有るの故なり。何ぞ平地の路に然るべきや」と。顕広曰く、「然なり。近き歌合にもかくの如く難ずるか」と。予曰く、「基俊の判か」と。顕広このとき承伏して「然なり」と云う。範兼傍若無人になりて、「然らば負けとなす」の由を称す。時に予曰く、「然りといえども、事の外の僻事なり」と。ここに重家の曰く、「基俊が書き置ける事を、末世の僻事と称し難きなり」と。予が曰く、「基俊が説を末世の今案をもって難ぜば、尤も然るべし。基俊より先達のもし申す事有らば如何」と。人々尤も興有り。証歌有らば出だすべしと責められ、暫く隔滞す。頻りにその責め有り。予申して曰く、「躬垣が仮名序には『天の川に烏鷺の与利葉を渡して、このかのも行きかふ』と書きたる様に覚悟す、如何」と。時に主上より始め奉りて、満座鼓動して御簾中に及ぶ。範兼少しく興違うの気有り。よりて勝に定めをわんぬ。範兼・顕広が同心の時虎の如く、証文を聞きて復た鼠の如きなり。この事今夜のみに非らず、後日も世間に鼓動して感嘆極まりなしと云々。ただし万葉集には「是面(このも)と書き顕はせり。然れば普通の事なり。知りたるは高名ならず、知らざるが不覚なり。後に聞くに、中院右府入道(源雅定)の曰く、「和歌によりて昇殿をゆるされ、即日御会に参じては覚えなるかな」と深く感歎すと云々。後日九条大将国(藤原伊通)の許に参ずるに、この事を云いだされて曰く、「道を嗜むをもって昇進す、自愛すべきかな」と云々。深く感有り。予曰く、「承暦の歌合の時、通宗朝臣昇殿す」と云々。申されて曰く、「いまだに先蹝を承り及ばず、いよいよ目出たき事」と云々。両丞相感歎し、いよいよ面目を増せるなり。

何もそこまで言わなくても…(^_^;)清輔さんは得意満面、ってカンジっすね。

和歌について造詣が深くないので逸話の意味なんかは理解出来てないんですが、所々に見え隠れする「清輔節(笑)」がオモシロくってキュートv掘っても掘ってもいろ②出て来そうな人である
しかも酔死って…。酒癖が悪かったのか、飲めないのに飲んで何かしでかしたのか、事情が気になるよぅ。

ついでにもう一つ。
・公実卿の歌に曰く、
 ふもとをば宇治の川ぎり立ちこめてくもゐに見ゆる朝日山かな
自ら歎じて曰く、「これは、『かはぎりのふもとをこめて立ちぬるは』と云う歌を盗めるなり。歌はかくの如くこれを盗むべし」云々。誠にもって興有りと云々。

清輔さんのツボはよくわからない…。

 参考文献
藤岡忠美 1995 袋草紙 ㈱岩波書店

2012-11-07

「源氏ひと絵巻」

2008/12/02 23:47 参照数27

山本淳子さんと酒井順子さんの対談が、12月1、2日付けの読売新聞の文化面に載っています。
山本さんの好きな人物ベスト3は若紫、桐壺帝、惟光。酒井さんは六条御息所、大君、朱雀院なんだとか。
私も断然、光源氏よりも朱雀院派(笑)。気が弱いところもあるけど、包容力がありますもん。朧月夜の君に対する愛情には萌ますv紫の上も好きだなあ。夕霧もいいけど落葉宮との一件がなぁ。落葉宮の方にちょっと同情。
酒井さんは大君のことを「素直に幸せになろうとしない姿に、現代の独身未婚『負け犬』通ずる雰囲気がある。イラっとしながら、愛しいものを感じます。」と仰っています。なるほど。大君の気持ちもわかるんだけど、薫とくっついてほしくてやきもきしちゃうんだよね。宇治十帖では。
山本さんは「あさきゆめみし」を通常版、文庫版、英語訳版と何セットも持っているそうです。すごいですね。また、「源氏物語を知っている人生と、知らない人生は全く違う。」とも仰っています。源氏物語を究めた人だからこそ出てくる言葉だと思います。
源氏物語愛好家はいろんな方の訳した本を何度も読んでいるんでしょうが、私は学術文庫の今泉忠義訳のだけでいっぱいいっぱいです。でも「あさきゆめみし」は今度読んでみようと思います。あと、死ぬまでにはがんばって原文を…。
2012-11-07

好きな歌人3

2008/11/28 02:10 参照数36

   藤原公実

 忘れにし人も訪ひけり秋の夜は月出でばこそ待つばかりける
(私のことを忘れてしまった人も訪ねてくれたことだ。秋の夜は、月が出るともしやと待つべきだったのだなぁ。)

 春たちて木末(こずえ)にきえぬ白雪はまだきに咲ける花かとぞ見る
(春になっても梢に消えず残っている白雪は、早くも木に咲いた花のように見えるよ。)

 我もさは入りやしなまし時鳥(ほととぎす)山路にかへる一声により
(時鳥が山路へと帰ってゆくときの声を聞くと、自分も山に入ってしまいたくなることだ。)

 男離(か)れ離れになりて、程へてたがひに忘れて後、人に親しくなりにけりなど申を聞きて嘆きける人にかはりてよめる。
(恋仲の男が女から去って、ほど経て互いに忘れてから後、女が別の男に親しくなったと、元の男がいう由を聞いて、嘆いている女に代わって詠んだ。)
 なき名にぞ人のつらさは知られける忘られしには身をぞ恨みし
(根も葉もない恋の噂で、あなたの情けなさがわかりましたよ。あなたに忘れられたときには、私自身のせいだと我が身をこそ恨んだのに。)

 朝日とも月とも分かずつかのまも君を忘るる時しなければ
(朝日とも月とも区別しませんよ。わずかでもあなたを忘れるときはないのですから。)
 通俊の和歌↓に対する返歌。通俊は公実の母方の叔父。経平は通俊の父。

 経平卿筑紫にまかりけるに具してまかりける日、公実卿のもとへつかはしける
 さしのぼる朝日に君を思ひいでんかたぶく月に我を忘るな
(東に登る朝日を見てはあなたを思い出しましょう。あなたも西に沈む月を見て私を忘れないでください。) 

 堀河院の御時、艶書の歌を上の男どもによませさせ給うとて、歌よむ女房のもとどもにつかはしけるを、大納言公実は康資王の母につかはしけるを、また周防内侍にもつかわしけりと聞きて、嫉みたる歌をくりければつかはしける。
 満つ潮にすえ葉を洗ふ流れ蘆の君をぞ思うふ浮きみ沈みみ
(満ちてくる潮によって、葉先を洗う流れ蘆が浮いたり沈んだりするように、浮き沈みしながら私はあなたのことを思っていますよ。)
 康資王の母の、「三島江のうらみつ潮にまがふ蘆のねたく松葉にかかる白波」に対する返歌。 
ときに公実五十歳、康資王の母九十歳ぐらいのときの和歌なんだとか。自分だけじゃなく他の女にもこういう艶書を送っていることを知って、怒っちゃったのね。元気なおばあちゃんだなぁ(笑)。

 〈略歴〉
後閑院大納言実季男。母は藤原経平女。正二位権大納言。堀河朝を代表する歌人で、「堀河院艶書合」「堀河百首」等の作者。歌合を主催するなど、歌壇のパトロン的存在でもあった。「金葉集」では源俊頼、源経信に続いて三番目に多く入集。勅撰和歌集においては五十八首入集。

調べているうちに段々愛着がわいてきた、公実さん。
優美な歌風の中に人間らしさを覗かせていてスキ。
そして女がらみの和歌が多いのな(笑)。人生楽しんでますね、オニイサン(笑)。
歌人としてもけっこう有名だったんですね。実は。「藤原公実について」という論文もあるくらい。
「堀河百首」の作者でもありますし。どの程度まで関わっていたかについては諸説ありますが。
以下、上記の井上氏の論文より抜粋。
「堀河百首」の作者については俊頼を中心としてなったとする石田吉貞説(「堀河百首の成立その他について」信州大学紀要29等)、康和末頃に国信・俊頼ら天皇近習歌人らによって一時的に成立し、国信が中心となって公実・顕季を加えて長治二、三年頃に二次的に成立し、天皇に奏覧したとする橋本不美男説(群書解題第七)、長治二年三月の大進葉室顕隆の東宮百首の影響を受けて公実らが歓進した(但し実務担当は俊頼か)とする上野理説(「堀河院御時百首の歌しめるとき」国文学研究三十二)がある。橋本・上野説、共に説得力あってにわかに決し難い。橋本氏も公実の歌壇的地位の高さをもちろん無視していないが、(「院政期の歌壇史研究」等)、上野説は公実のその地位の高さをとりわけ強調するのである。

通俊や俊頼、顕季といった当代を代表する歌人と親交があり、院近臣グループと宮廷グループ、両方において顔が利いていたので、当時の歌壇の中心人物となっていたようです(またざっくばらんな説明を…)。

「袋草紙」にも逸話がけっこう載っています。清輔さんは顕季の孫ですので、そのあたりからもいろいろ聞いていたんでしょう。

(以下、逸話の一つを意訳)
前大相国(藤原実行)語りて曰く、「故東宮大夫公実の近衛府の役人だったころ、範永の山庄において人々が和歌をよむというので行き向かったという。先づ酒を差して題を出だす。その間大夫殿は他事なく額をおさえて沈思に入り給うていた。範永これを見て云わく、『然るが如くの心を入れなければ、秀歌を読むことは出来ないだろう。』と。興有る言なり。」と。古えはかくの如く、世の英雄の公達が諸大夫の山庄に行き向かうこともあったのだ。

これは延久五年から承保二年にかけて、公実21~23歳頃のことと思われるそうです。後三条天皇が即位したのが治暦四年、公実15歳のとき。ようやく家運の正興は見えてきたものの、自分たちがいつ歴史の表舞台から埋没していくとも限らない。範永にしてみれば、貴顕の人が自分のような者のところに来てくれるのは感慨一入(ひとしお)だったんでしょうけど、公実には焦燥感や鬱屈した思いがあったのかな~と考えてしまいます。
英雄家といっても、「家格」については、当時人々のあいだで意識はされていても認識されるには至っていなかったと思います。「袋草紙」が執筆された時代と当時とでは、家の格に対する意識がかなり違っていたと思うんですよね。清輔さんは感嘆、もしくは訓戒をもってこの話を評していますが、そう考えるとまた趣も違うような。

 参考文献
藤岡忠美(校注) 1995 袋草紙 岩波書店 
片岡達郎・松野陽一(校注) 1993 千載和歌集 岩波書店
川村晃男・柏木由夫・工藤重矩(校注) 1989 金葉和歌集 詞歌和歌集 岩波書店
井上宗雄 1975 藤原公実についてー院政期における一貴顕歌人の生涯 桜楓社 臼田甚五郎博士還暦記念論文集編集委員会編 「日本文学の伝統と歴史」所収 

しっかし、国文学系の論文って面白いな~。気障(キザ)とかダンデイとか普通に出て来るし。文学的要素が強い分、自由度も高いのかね。
「藤原公実について」が入っている著書「日本文学の伝統と歴史」なんですが、司書さんに手渡されたときには唖然としてしました。べらぼーな金額もさることながら、そのぶ厚さ!持って歩くだけで疲れる(笑)。博士の還暦記念ということで出版された本らしいのですが、一体何部刷ったんだろう…。何だか市場には出回ってなさそうですよね(笑)。一部の研究者やファンの方が、後生大事に保管していそうな感じ。
しかも継続して出版されている本ではないということで、半分しかコピー出来なかっただから真中だけ抜けた状態で家にあります。
2012-11-07

雅楽公演

2008/11/13 02:27 参照数41

日本雅楽会の雅楽公演に行って来ました。
国立劇場小劇場の、前から三列目中央寄りの席をゲット{%手(チョキ)docomo%}和楽器が間近で見れる{%キラキラwebry%}

http://www.nihongagakukai.gr.jp

 演目は次の通り

第一部 管弦 平調(ひょうじょう) 調子、萬歳楽(まんざいらく)  
  
第二部 国風歌舞(くにぶりのうたまい) 東遊(あずまあそび)

第三部 舞楽 賀展(かてん)、納曾利(なそり)、長慶子(ちょうげいし)

全て「源氏物語」にまつわる楽曲なのだそうです。司会の方が「この曲は源氏物語のこの部分で使われていて~」と、丁寧に説明してくださいました。
私は特に「源氏物語」が好きというわけではないので、「納曾利」と聞くと「村上源氏が代々踊るやつだったっけ?」「頼通か頼宗が元服前に踊ったやつだったかな?」といった史実の方に思いが及んでしまいます{%冷や汗docomo%}史実といっても「今鏡」とか「大鏡」のあたり限定ですけどね。

で、公演の感想なんですが…
とにかく素晴らしいの一言に尽きます。
雅楽はお正月に流れる「春の海」ぐらいしか聴いたことがないので、とても新鮮でした。

哀切な調べを奏でる筝と琵琶。十三本の絃からなる筝は、ときには主役、ときにはわき役となって合奏を支えます。
同じく絃楽器の琵琶は主旋律と、その次の主旋律との合い間を縫って音を奏で、演奏にメリハリをつけているようです。撥でジャンと掻き鳴らす音がスキ。これぞ‘琵琶,って感じで。二つの楽器が好対照を成し、演奏全体に彩りをそえているようです。

打楽器の鞨鼓(かっこ)もしくは三の鼓。リズムを刻む他にも、ゆっくり打ったり早鐘のように鳴らしたりと、雰囲気づくりにも一役買っているようです。円形の打楽器の鉦鼓(しょうこ)は面白い形をしていました。

篳篥(ひちりき)かな?(奥の方はよく見えなかったので自信がない)はオーボエに似た、耳触りの良いきれいな音色。主旋律を奏することが多く、主役という感じ。笙はかっこう笛に似た面白い形状の楽器で、柔らかい音色。楽器と楽器のつなぎ役っぽい気が。笛は三種類のものを曲目によって使い分けるらしい。フルートに似ている(同じ笛なんだから当たり前なんだけど)。こちらも主旋律を奏することが多いみたい。大分息をつかうらしく、見ていてちょっと大変そうだった。

これらの楽器が合わさって出来る雅楽独特の和音。美しいです。日常からかけ離れた別世界、という気がします。

国風歌舞では演奏、歌、舞とが絶妙に調和していました。歌が前に出過ぎることもなく、演奏が大きすぎもしない、ちょうどいい塩梅。

舞楽ではさらに大太鼓(だだいこ)、かな?とても大きな楽器が登場。そのデカさ、煌びやかな装飾、迫力でした(笑)。「納曾利」ではお面を付けて舞っていて、狭い視界の中であれだけ踊れるなんてすごいな~と思いました。

演奏は終盤に近づくにつれて、どんどん良くなっていっているようでした。演奏者自身も盛り上がってきて、心が一つになったのかな?
雅楽では基本的に指揮者がいないそうです。鞨鼓の奏者がこの役を担い、演奏の開始と終わりの合図、演奏のテンポ等を調整するんだとか。皆と同じ方向を向きながらこれをやるわけですから、とても大変だと思います。まさに「以心伝心」の世界ですね。
舞は動きが揃ってないところが多かったのが残念。でも動きづらそうな衣装であれだけの舞が出来るというのは、やっぱりすごい。
「源氏物語」では光源氏が舞人の衣裳に趣向を凝らす様子が描かれていましたけど、ほんとそんな風にしたらキレイなんだろうなあと思いました。色鮮やかな袖がひらめく様子とか、想像するだけで楽しい。平安時代の人って、美意識がとても高かったんでしょうね。

むかしの人は宴の席でいつもこうした演奏会をしていたのか~と思うと、ただただ脱帽です。ホント「雅」なことで。千年前の日本って素晴らしい文化をもっていたんだなーと、今更ながらに感動しました。

でも頼長みたいな人間にとっては生きづらい時代だっただろうな~(笑)。
そしてこうした「遊楽」は一部の特権階級に限られていたということを忘れてはいけない。
庶民は庶民でしぶとく生きてるけどね~。

アンケートのリクエスト欄には『妙音院師長に因んだ楽曲が聴きたいです。能「玄象」の楽曲や、「蒼海波」(←秘曲だって)など。』と書いておきました(笑)。「長慶子」の作曲者として「源博雅」の名前があったのでイケるかなと。(・∀・)エヘッ。コレも一種の布教活動ですかね(笑)
司会者が去年のアンケートで『源氏物語千年を記念し、来年はぜひ「源氏物語」に因んだものを』という声が多かったので、今年はこうした演目になった、と仰っていたので。一応。

欲をいえばDVDを販売していただきたいところです。和楽器や弾く様子をじっくり見れるし♪カレンダーや楽譜の販売はしていたんですが、CDやカセットテープは売ってませんでした{%涙docomo%}


2012-11-07

藤原茂子

2008/10/30 20:28 参照数88

白河天皇の生母で後三条天皇の妃である、滋野井御息所について。

栄花物語を読んで思ったこと。
茂子についての記述が、なんともまぁ少ないこと(泣)
日陰の身の東宮の、これまた陽のあたらないところにいるお妃、って感じ?
栄花物語の作者は、彼女に興味ナッシングなのね…。
巻第36の26段に「美しいご容貌の名高くいらっしゃる方である(原文:御かたちの名高くものせさせたまう)。」と書いてはいるんだけど、しぶしぶ褒めてるカンジがしないでもない(笑)「他に書くことないし~、曲がりなりにも東宮妃なんだし~、一応書いとくか。」みたいな(笑)目立たない存在だから、作者は人の噂でしか知らなかったのかもね。
栄花物語って「とにかく褒める」ことが基本みたいだから、あんまり信用できないんだよな~。特に摂関家よりの人物については、まず疑ってかかることにしている(笑)みんながみんな美しいって、そんなことはないでしょう(笑)要は程度の問題なだけで、嘘はついていないんだろうけど。誰に対しても似たような書きぶりは、彩色に乏しくなって、むしろ逆効果よ。
それと巻第36の42段に「中宮(章子内親王)は昔から宮中に住んでいて慣れていらっしゃるので、女房たちも苦労が少ない」みたいなことが書いてあるんですが、誰と比べてんのかしら?って邪推してみたり。いや、そのすぐ前の41段に「滋野井女御殿は男宮一人と女宮二、三人をお産みになって、まことに頼もしく、めでたいことである」って書いてあるもんだからね。なんとなく。

その実父、公成のことは所々で褒めてるんだけど。
(きっと一目を引く美系だったんだろうな。女房たちの間でちょっと噂されてるかんじの。)
昇進も比較的早いんだし(27歳で参議)、もうちょっと長生きして、せめて大納言になってくれてたらよかったのにちなみに享年44歳)

ちなみに後三条天皇には、馨子内親王も入内しています。
皇子皇女も生まれていたのですが、皆夭折してしまいました。
もしも生まれた皇子が成長していたら、馨子内親王の生んだ皇子が東宮となっていたんだろうなぁ。
血の高貴さからいって。

後三条天皇と馨子内親王では、さすがに血が濃すぎてしまったんでしょうね。
あまり大きな声では言えないことですが
いとこ同士という間柄の二人ではありますが、馨子内親王の両親は三親等の婚姻(彰子の子・後一条天皇と、彰子の同母の妹・威子)、後三条天皇は四親等の婚姻(彰子の子・後朱雀天皇と、彰子の同母の妹・妍子の娘の禎子内親王)なんですから。(←書いてはみたもののよくわかりませんね…。)

後三条天皇も馨子内親王をむげには出来なかっただろうし、尊重はしてたみたいだけど、やっぱり茂子に対する愛の方が深かった印象が(希望も含めて)。
なんかね、茂子は健康で何があってもどーんとかまえていそうなイメージ(笑)
ときどき自分の立場に不安を感じてしまう夫に、「大丈夫よ。なんとかなるわ。」って、口には出さないんだけどそれを雰囲気で伝える感じの。根拠は全くないんだけど(笑)でも養父があの変わり者の能信だからか、いわゆる「深窓の令嬢」のイメージがあんまりない

後三条天皇は禎子内親王と一緒に閑院にいたことがあるんですがね、閑院は元々能信の住んでたお邸なんですよ。公季から譲られたね。だから火事で禎子内親王の里内裏が焼失したあと、禎子内親王&尊仁親王(後の後三条天皇)の後見役だった能信は、二人を自分の邸に招いた。んでそこには養女にしていた茂子もいて。
思春期(たぶん)の尊仁くん、同じ邸内に美しいと評判の姫君がいたらやっぱりムラムラ、じゃなかったドキドキするんじゃないかな~って。『源氏物語』の夕霧と雲居雁みたいな感じだったいいなあと妄想。そんな二人の「小さな恋のメロデイ♪」が結果的に「閑院」流の発展につながったのだとしたら、これまたドラマだわ~、とまた妄想(笑)


ついでにいうと栄花物語、能信の扱いもけっこうぞんざいなんですか。
亡くなった時でさえ筆を割いてない。頼宗と長家については書いてるのに。
これ、もしかして故意ですか?ねぇ。
ほんと、「三所(みとところ)ながら~」って三人をひとくくりにして済ませちゃってるの。
名前ー、名前出してあげてよー。
巻第37の18段で頼宗の名前の後に「東宮大夫殿」って付け加えるだけなら、一行もいらないじゃん…。


  参考文献
黒板勝美・国史大系編修会(編) 1991 国史大系尊卑分脈 吉川弘文館
山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進(校注・訳) 1998 栄花物語 小学館

2012-11-07

wikに

2008/10/16 23:18 参照数22

秦公春の記事があることを、某様のブログで知りました。
とってもびっくりです(笑)
っていうか、誰が、何のために?
愚問かもしれませんが、フツーにそう思いましたよ(笑)
編集者は頼長ファンの方?
にしては記事にマッタク愛を感じられないのですが。

まぁあんまり信用してませんけどね、wik。
他でも愚痴ってることなんですが、う~ん(-"-)と思ってしまう記事が多くて。

例えば美福門院の項目。
「類いまれな美貌の持ち主と伝わる」って、何によって伝わるんだ?彼女が美しかったっていう記録、見たことないんですけど。安楽寿院所蔵の肖像画のせいか、個人的にはどうも美人だったって気がしない…。鳥羽院の好みだったのだとは思うが。彼女の従兄弟の家成も寵愛してるし。
「卓抜な戦略的手腕を見せ」には、そこまでいうほどのことか?編集者は随分と彼女をごひいきにしているんだなぁ、という感想を抱いてしまった。我ながら意地の悪い見方だなぁとは思うのだけれど。
辞典と銘打っているものに編集者の個人的な好き・嫌いを感じ取ってしまうと、白けるというかすごい冷めます

西行の項目の、
「白河院の愛妾にして鳥羽院の中宮であった待賢門院」というのもなぁ。中宮の尊位にある女性を指して、「愛妾」の表現は如何なものか。

あと藤原師長の項目の
「の血統は絶えた」。適当にぼかしておけばいいのに、何も断定しなくても(-_-)政治の表舞台に立つことはなかったかもしれないけど、子孫はいたかもしんないじゃん…。藤原忠良室になった娘が生んだ子とか。確か忠良の子で生母不明の人がいたはず。それに、配所で子供作ってるかもしんないし(笑)


正確で客観的なことを書くのが難しいのはわかります。
専門の研究者が書いた論文でも、そういう‘個人的な趣味,を感じ取ることはありますし。歴史上の人物たちの感情を何ら考慮に入れることなく、客観的な事実のみでまとめられた論文よりも、そうした‘人間味溢れる,論文の方が魅力的な場合もあります。例えそれが首をかしげたくなるようなことであっても、専門家の方が本名を公表された上での文章であれば、別に腹は立ちません。
また素人は素人で、‘あくまで個人的にですが,という前提でいろいろやればいいんです。

よくわからなくってスイマセン

ようは「wikって中途半端だよなぁ。にもかかわらず広く用いられてるっぽいな。それって問題なんじゃ」ってことですよ…。
どこのだれが書いたのかもわからない、それこそ何の責任も感じられない記事を‘公の,‘辞典,として公開すること。どうしても違和感がある。

「なら利用しなきゃいいじゃん」と言われるのはわかっているんですがね、ついボヤきたくなってしまったのですよ…。御容赦下さいませm(__)m


公春から始まったのに、話はなぜかシリアスな方向に
まいっか(笑)
2012-11-07

花の1138年組

2008/10/06 01:08 参照数83

  司会者:それではお一人ずつ、自己紹介をどうぞ~

師長:(さわやかに)こんにちはー。藤原師長です。特技は琵琶。趣味は音楽です。(ペコリ)

 観客:カッコいいー。さわやか~。(拍手)


実定:(はにかみ気味に←でも実は計算かも)藤原実定です。特技は和歌。今様も好きです。(ペコ)

 観客:可愛い~。弟にしたい~。(拍手)


重盛:(ちょっと緊張してる)平重盛と申します。特技は流鏑馬(やぶさめ)です。ふつつか者ですが、宜しくお願いします。(深々と礼)
 
 観客:武家装束もいいわ~。凛々しくてステキ~。(拍手)


成親:(自信満々で)藤原成親です。特技は色仕掛け。僕に落とせない男はいません(豪語)。

 観客:しーん。(どこからくるんだろう、この自信は。しかも‘男,って…。)

成親:(ノリの悪い客だなぁ。冗談が通じないのか。)


 いや、それシャレになってないから(汗)。司会者泣かせの困ったちゃん(^_^;)小さい時から大人の社会で揉まれて育ったせいか、いろいろとズレちゃってるのね。

 成親の特技は何かって考えたとき、何も思い浮かばなかった。しいてあげるなら今様?でもそれもぱっとしない感じ。身一つでよくぞここまで…。ある意味スゴイわ。

 でもこの四人、実は同い年のイメージがない師長は28歳ごろまで都にいないし、成親は中年の頃を想像したくないし。成親と重盛もタメなのか…。運命的なものを感じるような、感じないような。なにはともあれ豊作(?)の年ですね

 実定はホントは1139年生まれ。でも同世代ということで入れときました。師長・重盛・成親だと、なんかまとまりに欠ける気がして。師長と重盛・成親になりそうな感じ。兼長を入れてもよかったんだけど19歳で配流、20歳頃に早世だからねぇ。『今鏡』では美しかった(でも太り過ぎ)っていうから、もったいない
 
2012-11-07

藤原光子

2008/09/29 18:42 参照数27

 藤原公実の妻、従二位光子について

イメージはやり手の母さん。夫の片腕として活躍、みたいな。
天皇家二代にわたって乳母を務めるって、そうはいませんよ(^^ゞ


鳥羽天皇が生まれた際には、早々と乳母に任じられています。
もしくは元々乳母として出仕することが決まっていたようです。
以下、中右記の記事を意訳。

  康和五年正月二十六日
(略)院のもとに馳せ参じ、仰せを承る。御返事云、誠に以て申し盡(つく)せず。皇子迎寄の後、坐さずに指示し給う。御乳母弁三位(藤原光子)・女房七八人許相具して祇候、…。


また、白河院とは割合気安い間柄だったようで、『今鏡』の二四五段にこんな一文があります。

ことのほかに世にあひたる人にて、通季・信通とて、ひとにておはせしに、立ちならび給ひけるに、信通の君は小さく、これは大きにおはすれば、母の二位殿、
「これはいづれかかたは」と申し給ひければ、白河院は、
「男の大きなるは、あしきことかは」とぞ仰せられける。

(以下意訳)
殊の外に世に用いられた人で、藤原通季・藤原信通という人がいらっしゃいましたが、二人が立ち並びなさいますと、信通の君はお小さく、通季の君は大きくいらっしゃいましたので、母の二位殿は、
「これはどちらかが不具であるよ。」と申しなさいましたので、白河院は
「男の大きいのは良くないことはない。」と仰せられました。

光子よ、自分の息子に対してだけならともかく、人様の子供に向かって「かたは」とは何事か(笑)。
まぁそれはともかくとして、院とこんな会話が出来るなんて乳母としては格別だったんじゃないかなぁ、と思うわけですよ。
しかし、「男の大きいのは良くないことはない」のセリフ、白河院が言うと下ネタに聞こえるんですが(死)。私の気の迷いですね、はい(笑)。
2012-11-07

時代ものをやるなら

2008/09/05 00:50

平安時代を扱ったドラマは皆無に等しいですが、もしやるとしたらこんな配役を希望。

藤原教長→藤村俊二さん
アインシュタインに似ているおじいさんです(←どんな説明よ)。ドラマではよく老紳士役で登場します。ぴったんこカンカンのナレーションもなさっています。
自分でもナゼかわからないのですが、保元物語を読んでから教長にはずっと藤村さんのイメージがあります。自身の歌集に「貧道集」と名付けるちょっぴり自虐的なセンスとか、どことなく飄々とした雰囲気、そして実はおちゃめでちゃっかりしてるトコロ(頼長とのいくつかのエピソードから)なんかがツボなのです。おそらく私だけでしょうが。
藤村さん、長生きしてください(←余計なお世話)。でも好きな俳優さんなので、ホントそう思います。この方に代わる俳優さんって、そうはいないですよね。

白河院→平幹二郎さん
ドラマ「けものみち」で米倉涼子を囲うフィクサー(政界の黒幕)役をなさっていました。
老獪な人物である白河院は、やっぱりこれくらいの貫録・存在感がなくっちゃ~。好色そうなとこ(ドラマの上で、です、(汗))もハマってると思います。


…マニアックな人物ばっかだな(笑)。

テレビで直衣姿とかあまり見ないから、イメージが湧かない貴族や武士の装束が似合うヒトって、あんまりいないような…。

女性も同様。大河での若村麻由美さんは、さすが衣装を着こなしていらっしゃいますが。やっぱりきれいで雰囲気があるな。待賢門院をやって欲しいかも。中年で出すならね。

あとは蒼井優ちゃんに清少納言とかの女房・女官役を演ってもらいたい。主役じゃないんだけど重要な役、で、画面を引き締めて欲しい。着物似合うし、演技派だから

松坂慶子さんは以前平時子役をなさっていましたが、時子はそれほど美人じゃなかったと思うよ徳子もそうだけど。清盛も微妙。主役は論外(っても他に誰が適役か、って聞かれたら、答えに窮すけどさっ)。弁慶と政子はけっこうハマってたと思うけど。

頼長は冷たいカンジの美系に演ってもらいたいのですが、なかなかいないんだな、これが。

ジャニーズ系のヒトはあんまし好きになれない。俳優アイドル云々というより、なんつーか事務所のやりくちが気に食わん

あとあと、配役はわからないけどやって欲しいのは「西園寺実兼」。このヒト、気がついたら押し倒されてそうだよね(爆)ただの女ったらし、と見せかけて実はキレ者、でもやっぱり女好き(←すげえ言いよう)な西園寺実兼がドラマで見たい彼をめぐる女性たちとか、ネタには尽きないと思うんだけどな~。
2012-11-07

宗忠と宗輔

2008/08/28 23:09 参照数32

中右記を読んでいてたびたび出てくるのが、「宗輔と~に行った」という記事。
「宗輔と賀茂祭の見物に行った」「宗輔と比叡山に登った」など。
仲良かったのね
蜂飼いの大臣こと宗輔さんは宗忠の15歳年下の異母弟です。
兄弟といえど上流の公卿ともなると仲が悪くなってしまう人たちが多いので(忠通と頼長、俊房と顕房など)、なんだかほのぼのとしてしまう
中年の男が二人で祭り見物か(ボソッ)と思わないこともないですが(笑)。
ちょっぴり世間ズレしている弟がほっとけないしっかりもののお兄ちゃんって感じ?
宗輔さんもとっても素敵だけど(ほんとネタに尽きない人よねなんか可愛い)、宗忠さんも実はいいキャラしてそう(笑)。日記ってやっぱり人柄がにじみ出るよね
2012-11-07

中右記大治二年四月九日の記事の謎

2008/08/28 01:58 参照数79

中右記大治二年四月九日の記事に、こんな記述がある。以下意訳。

午の時、摂政殿の許に男子御産。平安の令遂に給う由、右中弁の告送する所也。乍(ながら)驚くと雖(いえど)馳せ参ずる。依りて目所労不参向也。殿下男子儲け給わず、甚だ其れ恐れ多い處(ところ)有り。今日男子適正給う也。執柄の家連々不絶。天の授かる所也。氏明神の助也。世間の為一家の為感ずる欣、仰せ崇めるべし也。件の旨申し大殿殿下畢に并(ならぶ)。殿下御消息を云い給う。鳴絃人読書人、今度依りて此の姫君特例令衣冠を着、令候簀子如何、尤も由申し了然むか。先年二ヵ度不吉のこと有り。依りて今後かの時例給うの儀違例か、尤も然事なる也。今日或いは晴れ或いは雨、終日不定也。
申時殿下御産御湯殿始め、鳴絃廣房、顕行、盛経、資兼、雅清、時信六人、読書式部少輔時登、皆着衣冠候南簀子云々。

当時の摂政は藤原忠通である。しかし尊卑分脈等を見るかぎり、忠通にこの年に生まれた男子がいたことは確認出来ない。忠通が康治二年(ときに忠通46歳)になるまで男子に恵まれず、異母弟の頼長を養子としていたことは有名である。ただ、実際には妾腹に男子が生まれていたようである。即ち陸奥守藤原基信の娘から生まれた恵信、覚忠(生母は不明)らである。この記事にある男子とは、このうちの一人なのであろうか。いずれも僧籍に入れられていることを考えると、そうとは考えづらい。「今日男子適正給う也。」と、‘適正,という言葉を使っている点からも、藤原宗忠は‘嫡子に相応しい,男子が生まれたと感じ、こう記したと思われる。ならばこの男子の母親は本妻、藤原宗子の所生と考えるのが妥当ではないだろうか。

また、『今鏡』には忠通の子女らについて、「北の方はきびしくものし給ひしかども」「いなごなどいふ虫の心を少し持たはばよく侍らまし」といった表現をしている。北の方は嫉妬深く、別の女性から生まれた子供たちを成人するまで寄せ付けようともしなかった。いなごという虫のように嫉妬しない心を少し持っていればよかったのに、というのである。他にも今鏡の作者は自身の評として、恵信と覚忠が在俗であったならば、今はお年を召した上達部(かんだちめ)でいるはずなのに、といった記述をのせている。

もちろん『今鏡』の史実性については問題が指摘されており、この記述を全て鵜呑みにするわけにはいかない。しかし、源氏物語に心酔している作者が‘事実を故意に源氏物語の表現に擬する,ということをしていないこともあり、この記述のある側面は信用しても良いのではないかと思われる。それは当時摂関家の跡取り問題は公卿たちの間でも重要視されていた、ということである。中右記の「殿下男子儲け給わず、甚だ其れ恐れ多い處(ところ)有り」「世間の為一家の為感ずる欣、仰せ崇めるべし也」といった表現からも、それは裏付けられよう。また、『今鏡』の作者が自身の考えを述べることは、そう多くない。自身の考えを述べることの多くは、人々の才芸についてである。作者の関心は主として芸能方面にあり、政治的なことに対しては一歩引いた態度をとっているのである。

また、藤原宗忠はれっきとした公卿の一人であり、摂関家の家司などではない。日記にたびたび忠実及び忠通のことが記載されているため、比較的摂関家に近い人間であったとは思われるが、それでもこの喜びようは尋常ではない。

大治二年(1127年)という年を考えると、白河院の専横が最もピークに達していた頃ではなかっただろうか。白河院は保安四年(1123年)に孫の鳥羽を退位させ、曾孫である崇徳を即位させている。保安二年(1121年)には、忠実を事実上罷免し、新たに忠通を関白に任じている。
摂関家においては承徳三年(1099年)に師通が、康和三年(1101年)に師実が相次いで亡くなっている。康和三年当時、忠実は23歳。政治経験があまりないこともあって、失策が続いた。喜承二年(1107年)に堀河天皇が死去した際には、藤原公実が外戚たるをもって鳥羽天皇の摂政に名乗りをあげたこともあった。源俊明の進言によって忠実が摂政に任じられたものの、これにより摂関の人事権を院が持つことは決定的となった。保安二年に忠実が罷免された際にも、白河院ははじめ忠実の叔父の家忠を関白にしようとしたが、藤原顕隆の反対にあって忠通を任命したという経緯があった。これらの事情により、当時摂関家の権威は著しく低下していたのである。

宗忠をはじめとする公卿らが白河院の専制に対して危惧の念を抱いていたこと、またそれに対峙しうる存在としての摂関家の権勢の回復を願っていたことが、中右記の記述から読み取れはしないだろうか。



書いてはみたもの、気のせいだろって言われれば終わってしまう話なんですがね(-.-)
いや、忠実が摂関の地位に忠通の次には頼長を就けようとしたのって、しごく妥当な判断だったんじゃないかなーと思いまして。摂関家の安定は公卿、ひいては世間にとっても重要なことだったんだろうなぁと、中右記の記述を見て感じたのです。
愚管抄のおかげで‘忠実の偏愛により~,の部分が強調されてるけど、世代的な事を考えれば忠実→忠通→頼長→忠通の子息、でちょうどいいだろっていう。忠実には(実は忠通も)自分が若くして摂政・関白になって苦労した経験があったわけだし。実際基実の死後、摂関家嫡流の継承の流れが途絶してしまっているわけで。

『今鏡』の179段も、なぜに突然「いなご」?とちょっと不思議です。「后などはかの虫のやうに妬む心なければ御子も孫も多く出で来給ふとこそ申すなれ」の后も、誰を指しているのか不明だし。平安時代の虫に対する意識がどれほどのものだったかがわからないので、何とも言えないのですが。ただ、源有仁を「光源氏などもかかる人をこそ申さまほしくおぼえ給へしか」としている作者ならば、忠通を頭中将に見立ててもよさそうなものなのになぁと、考えてしまうのです。忠通は有仁と共に歌壇をリードしていた存在だったし、年齢・家柄等頭中将と似通っている部分があると思うのですが。んで頭中将の北の方が夕顔にひどい事を言ったことを引き合いに出し、夕顔を忠通の子供を産んだ女性に見立てればちょうどいいような気がするんだけど、と。それをしなかったのは当時こうした揶揄の表現が公卿達の間で交わされていたのでは?と深読みしてしまうんですよね。北の方に対する一連の記事、けっこう真実を伝えているんじゃないか~と。

恵信、覚忠らを僧籍に入れることはないんじゃ、と、今鏡の作者でなくても思います。もちろん後代視点が入っていることは否めませんが。一つにはタイミングの問題があったんでしょうね。妾腹に子供が出来た頃、正室宗子には妊娠する可能性がおそらくあった。すでに妊娠していたとか。聖子の他にも夭折した子供が2、3人いたらしいですし。忠通もまさかそれ以後46歳になるまで男子に恵まれなくなるとは、思ってもみなかったんだろうな。なんだか気の毒だ。恵信、覚忠は自分の子供かどうか疑わしかった、ということも考えられるな。


腹黒関白忠通。特異な性向とキャラの濃さゆえに頼長の方がダメ出し、もといクローズアップされているけれど、この人も実はたいした人物じゃないよな(ボソッ)。典型的な「木を見て森を見ず」の政治家よね。小手先の策略は得意だけれど、大局的には物事を見ていないっていう。もちろん武士勢力の台頭は当時の貴族たちの中でも意識していた人は皆無だったでしょうから、忠通一人を責めるわけにはいきませんけど。
呈子に近衛天皇を独占させるために多子の御所をたびたび放火させたって、これが本当だったら人が死んだらどうすんだ(怒)って話ですよ。しかもアンタ経済のこととか全然考えてないだろっていう。邸一つ建てるのにどんだけお金がかかると思ってんだ(証拠がないので強くは言えませんけどね…)。
頼長や信西と比べてしまうからいけないのだとは思うのですが、なんかこう「政治に対する意欲」が感じられないのですよ…。

 参考文献
松本治久 1994 山内益次郎著『今鏡の周辺』 国文学研究112所収 早稲田大学国文学会(編)早稲田大学国文学会
竹鼻績 2006 今鏡(上)(中)(下) 講談社
山内益次郎 1989 二代の后多子ー『今鏡』人物伝の周辺ー 武蔵野女子大学紀要24所収 武蔵野女子大学紀要編集委員会
渡辺晴美 1993 藤原忠通研究ーその結婚をめぐってー 立正大学国語国文29
2012-11-07

とんびとたか

2008/08/15 22:49

教通:どうも、たかでーす。
頼通:とんびでーす。

教通・頼通:二人あわせて、‘とんびとたか,でーす。

観客:(しーん)

教通:(汗)。
(やべ、自分が‘たか,になることに必死で、ネタを考えて来るの忘れた。)
教通は隣りの頼通を一瞥した。一人のほほんとしている。何も考えてなさそうだ。
(くそう、人ごとじゃねえっつのなんか俺が悪いみたいに見えるじゃねえかっ)

観客:(しーん)

教通:汗  


数分後、一言も発しないまま、幕が閉じられた。




その後は細々と活動は続けられたものの、結局二人の仲が悪くなったことと、実力の無さとで、コンビは解散。
道長がサクラを呼んでやったり、彰子姉さんが二人を励ましたりと、外部からの努力はあったのだがね。

ただ、その出自の良さと見てくれの良さとで、アイドル的な人気はあったのだとか。
実資なんかは頼通のブロマイドをこっそり大量購入。公卿たちにはバレバレなんだけど(笑)。
←購入後の実資。

公任は婿のブロマイドが頼通よりも売れていないことを知り、これまた大量購入。
邸内にあるブロマイドを見つけて教通は、
「何やってるんですか、舅殿(ムキー)私はそんなので勝ってもうれしくないですよ。もうやめて下さいね(ぷんぷん)。」
公任:(;_;)しゅん

公任カワイソウ



…すいません×2


……見逃して下さい(笑)
プロフィール

ゆきめ

Author:ゆきめ
ブログタイトル:しおんのいだしぎぬ。

日々のこと、趣味について語りたいと思います。
心理学、西洋占星術、歴史(主に院政期)など。
よろしければおつきあいくださいませ☆

2012年11月6日ウェブリブログから移行しました。記事の上にある参照数とブログ気持ち玉はウェブリブログのときのものをそのまま載せたものです。

公募小説の投稿などは「遠野紗雪」という名前を使っています。
note、「小説家になろう」サイトにも投稿しています。

このブログ内の文章の無断転載等はおやめ下さい。

コメント本文にURLを記載したい場合は、URLかメールアドレスのところにでも張って、その旨をお書きください(スパムコメント防止のため)。
お手数おかけしますm(_ _)m

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター