FC2ブログ
2013-07-12

小説「油火(院政期歌人伝―待賢門院堀河・兵衛姉妹、 藤原実能、藤原多子―)3」

「歌物語としては面白いけれど、タイトルがイマイチね。藤原実能殿が主役ということで、『徳大寺大臣物語』とでもすればいいのではないかしら。それに、『下紐は――』の和歌は実能殿のご子息の公能殿の和歌ではありませんか。それをタイトルに持ってくるのはどうかと思うわ」
 兵衛はずけずけという。
「あら、だって実能殿が徳大寺大臣と呼ばれるようになったのは鎌倉時代なのだもの。『徳大寺』を付けるのはアンフェアなようでちょっと気が退けるわ。『下紐は――』の和歌が一番上手いと思うからタイトルにしたのだけれど、不味いかしら」
「まあしょうがないのではなくて?今度は私の番ね。主役は実能殿の孫娘、多子殿よ。タイトルはこちらも和歌の名前をとって『雲居の月』。ではどうぞ」

平安末期は、貴族の世から武士の世へと移り変わる過渡期であった。
末代より歴史を俯瞰して見据えれば、その‘変化,は起こるべくして起こったといえるだろう。だが、歴史の転換期にある人は自らが時のうねりの狭間に置かれていることなど、知る由もない。時代を巻き込み、あるいは巻き込まれ、人々はただ流されるように生きているだけなのだ。 
このお話しは、そんな時代の流れに翻弄された一人の女性について叙述したものである。

「雲居の月1」http://shionnoidashiginu.blog.fc2.com/blog-entry-25.html
「雲居の月2」http://shionnoidashiginu.blog.fc2.com/blog-entry-26.html
「雲居の月3」http://shionnoidashiginu.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
「雲居の月4」http://shionnoidashiginu.blog.fc2.com/blog-entry-304.html

「月の行方」http://shionnoidashiginu.blog.fc2.com/blog-entry-311.html

「面白かったわ。物語比べはお前の勝ちね。くやしいわ」
 堀河が笑う。続けて堀河は
「題材がいいのね。二代の后はそれだけでドラマ性があるもの」
 と言った。
「嬉しいわ。なんだかんだいっても和歌では私はお姉さまに敵いませんからね」
「まあご謙遜を」
 堀河は両手を上げてみせた。
「だって『今鏡』という歴史物語にも書いてあるのですもの。『このような女流歌人は世に現れなさる事はめったにない』って」
「年の功ね」
 堀河がうふふ、と笑った。そのとき、二つの炎が二人に近づいてきたかと思うと、炎は十二単の女性の姿になった。
「二人はいいわ。後世に名を残せて。私たちなんてごく一部の研究者からしか知られていないのよ」
 二人の姉妹、大夫の典侍が言う。彼女は堀河と兵衛の父、神祇伯源顕仲卿の三女だ。
「私なんて宮仕えしなかったから、名前すらないわ」
 次女の藤原重通卿の妾が言う。
「悪かったわ。二人とも落ち着いて」
 堀河が二人をたしなめる。
「ねえ、堀河お姉さまと兵衛はいつまでここにとどまっているの?いい加減成仏しましょうよ」
 大夫の典侍が言う。
「だってここにいるといろいろなものが見られて面白いのだもの。成仏するのは当分先になりそうだわ」
 兵衛が言う。
「そう、私たちは天界に行くわ。現世に興味なんてないもの」
「そうね、お前たちはお行き。私たちはここにとどまって歌人の在り方・行く末を見届けるわ」
「私たちがこれからどう研究されていくのか、とても興味があるの。西行殿や俊成殿、定家卿についてもね」
 兵衛が堀河に続く。
「歌人の在り方、ね。そんなもの、死んでしまったら終わりじゃないの」
「あら、面白いわよ。女流歌人だけでも与謝野晶子、俵万智と人物には事欠かないわ」
「死んでも和歌は残るの。この地球上に思想というものが消えない限り、永遠にね。私たちはそれを確かめたいのよ」
 堀河はそう言って微笑した。
「そう……」
 堀河と兵衛の姉妹二人はそう口にして去っていった。
「さて、今日はどうしようかしら」
 堀河が兵衛に語りかける。
「疲れてしまったわ。もう休みましょうよ」
 兵衛はそう言って唐衣を羽織った。
「そうね」
堀河が応えた。二人の周辺には何もない。静かに時が流れるばかりだ。

 堀河と兵衛は、今も霊界に身を置いて歌人の行く末を見守っている。


   
   参考文献
久保田淳校注 一九八六 千載和歌集 岩波書店
川村晃生・柏木由夫・工藤重矩校注 一九八九 金葉和歌集詞花和歌集 岩波書店
竹鼻績 一八八四 今鏡全訳注 講談社
三谷榮一・關根慶子校注 一九六五 岩波書店
三木紀人 一九九八 今物語 講談社
峯村文人校注・訳 一九七四 新古今和歌集 小学館
山本淳子 二〇〇七 源氏物語の時代―一条天皇と后たちのものがたり 朝日新聞出版
スポンサーサイト



2013-07-12

小説「油火(院政期歌人伝―待賢門院堀河・兵衛姉妹、 藤原実能、藤原多子―)2」

「下紐は」

平安時代末期。
 汗と香の入り混じった匂いが噎せかえるように辺りを漂う。その匂いは高貴な者ほどかぐわしく、卑賤な者ほど臭気を放つ。高貴な者は唐物の香や伽羅をふんだんに使い、合香にしているためだ。一方で卑賤な者は香など使えないから、放つ匂いは汗だけということになる。小路を通って内裏に向かうと、それが顕著に感じられる。牛車から漂う臭いに、中宮権亮藤原実能は直衣の袖で鼻を押さえた。時期は八月も半ば。初夏を過ぎ、晩夏に差し掛かろうとしている頃だ。
 
「先の齋院令子内親王付きの女房である『ひなげし』という女が、恋の上手であると評判ならしい」
 帝の催した宴が終わった後、誰かがこんなことを口にした。
「蔵人少将がこっぴどく振られたらしいな」
「あの蔵人少将が!随分と度胸のある女房だなあ」
「まああの蔵人少将のことだ。それしきのことではへこたれまいよ。なあ中宮権亮殿」
話しを振られた実能は、困った末に
「それはまた……」
 とだけ口にした。蔵人少将藤原公教は実能より九歳齢下の甥である。十六歳という若さながら帝の祖父である院に目をかけられ、押しも押されぬ勢いを持っている公達だ。華やかな美貌と、若者特有の向こう見ずさが相まって、思わず惹きつけられるような魅力を醸し出している。甥といっても異母兄の息子だから、特別親しいというわけではない。むしろ自分の縁者だからこそ、その存在を危ぶんでいる面もある。正妻腹とはいえ、実能は父親の四男坊だ。嫡男は別にいる。六歳年上の同母兄、通季だ。だがその兄通季をも凌ぐような甥の威勢のよさ。これには注意が必要だろう。  
実能が物思いに耽っている間に話は進んでいたらしい。
「それほど難しい女であれば、私も挑戦してみたいな」
「私もだ」
「私も」
 殿上人たちが口々にそう言いだした。誰がひなげしを口説き落とせるか競争しようということらしい。
「中宮権亮殿も行かれてみてはどうですかな?」
 とある殿上人からそう声をかけられた。
「いえ、私は」
 そう言って実能は遠慮がちに手を振った。女は間に合っている。実能には北の方をはじめとして多くの「ツマ」がいた。
「甥御殿の鼻を明かしたいとは思われませぬのか?」
 殿上人は絡むように続けた。酒が大分まわっているのだろう。
「どういう意味ですかな?」
 実能はふと自虐的な感傷にとらわれて、男に尋ねた。
「兄弟とはいえ異腹の男の息子を野放しにしておいてよいのか、という意味ですよ」
 そう言って男は意地悪く実能を見つめ返してきた。男は実能よりも年嵩であったが、昇進は実能よりも遅かった。妬みもあってこの様なことを言うのであろう。だが男の言葉は真実を衝いていた。
「確かに危険ですな。ここで一つ、釘を打っておきたいところです」
 実能は男に向き合い、ゆっくりと笑ってみせた。

 それが一ヶ月前である。実能は令子内親王の御所の局を訪れていた。
「中宮権亮様、一体何用ですか?」
 取り次ぎの令子内親王付きの女房宣旨が実能に尋ねた。
「ひなげしの花をめでたいと思ってね」
「ああ」
 宣旨はそれだけで合点がいったとみえ、後ろの女房に何か指図をしていた。声には嘲笑めいた響きがあった。きっと私のような殿上人があとをたたないのだろう。ひなげしは良くも悪くも今評判になっているのだ。
 小声で声がする。
「私は姿を見せるつもりはありません」
「そんなことを言って……。相手はあの今をときめく中宮の実のお兄様なのですよ?いい顔しておいて損はないと思いますよ」
「そうよ、あんな見目麗しい御方からお声がかかって、全く羨ましいわ」
 囃し立てるような若い女房の声や、言うことを聞かないひなげしに困り果てているような雰囲気の年配の女房。およそ内親王の御所の一角とは思えないにぎやかさに、実能は苦笑いを禁じ得なかった。やれやれ、どこの局も同じようなものだな。日頃から同母妹の局に出入りしている実能は、こんな感慨を抱いた。
それでも皆に促されたのか、一人の女房が姿をあらわした。顔を扇で隠している。黒髪がさざ波のように揺れ煌めいていた。よく手入れされているのだろう。身体の振動を伝った髪がまるで別の生き物のように動いたかと思うと、一瞬で几帳の内へ引っ込んでしまった。しまった、髪に見惚れていて、他の部分を見ていなかった。実能は心の底からくやしがったが、後の祭りであった。ひなげしが出てくる気配はない。そこで実能は、
「ひとめ見し人はたれとも白雲のうはの空なる恋もするかな
『あなたを一目見て、あれは誰かと誰何したけれど、わからない。そして私はあの白い雲のように上の空だ。でもそんな恋もいいのかもしれない』」
 と詠んだ。長期戦でいこうというのである。返歌を、という声がした気がしたが、実能は待たなかった。

 次の日、また次の日と実能は伶子内親王の局を訪った。目的はもちろんひなげしである。ひなげしからは捗々しい返事はもらえなかった。実能はなんでもした。ひなげしの花に文を携えて贈ったり、高価な香や衣を贈与したりした。毎日のように通っても一向に姿をあらわそうとしない女に、実能は業を煮やしてこんな和歌を詠んだ。
「いかで我つれなき人に身を替へて恋しきほどを思ひ知らせん
『どうにかして私はつれないあなたに生まれ変わり、私がどんなに恋しいと思っているかを思い知らせたいものだ』」
 少し間があった。
「身を替えると、仰るのなら……」
 几帳の内でそっと囁くような声がした。それに筆を動かす音が続く。しばらくして、几帳の横から扇が差し出された。松を背景にした扇で、こんな言葉が綴られていた。
「蓑虫のすげ替えたるは衣色
『蓑虫のすげ替えた色は何色?』」
 美しい手蹟であった。小振りの文字が細やかで、大変女らしい。実能は筆を借り、
「恋に沈むは色なきにけり
『恋に沈んでいるのなら色はありませんよ』」
 と扇に続けて書いて渡した。扇に手が差し伸べられる。その手を実能は取ろうとした。するとからん、と扇の落ちる音がした。
 一瞬の静寂。時が止まったようであった。
 続けて実能は、
「下紐は解けずは解けず小夜衣その移り香にしむと身ともがな
『夜着である小夜衣の下紐が解けないのならばそれでいい。だがせめてその移り香を染み込ませたい(当時人から恋心を持たれると自然と下紐が解けるという言い伝えがあった)』」
 と詠んだ。すると思いもかけずひなげしから返歌があった。
「人をして解けりと聞きし小夜衣汝心を推し量りたり『どうせ人づてに私の夜着は簡単に解けると聞いているのでしょう。私はあなたの心を推し量っています』」
 駆け引きには長けているようだが、和歌は不得手とみえる。直球過ぎて面白くもなんともない返歌だ、と実能は思った。
「小夜衣よりは、狭衣の方が私は好きです。
色好みの源氏の君が主人公の源氏物語よりも、同じ色好みでも憂いを常に抱えている男が主人公の狭衣物語の方が」
 和歌で返すよりも話を振った方がよかろ
うと、実能はこんな風にひなげしに語りか
た。
「……私も、源氏物語より狭衣物語の方が好きだわ」
 ひなげしは少女のような声音になった。公達たちとは物語の話しをすることなどなかったのだろう。
「気が合いますね」
 そう言って実能はひなげしの手を取った。
「そうかしら。私は狭衣の君のような自分勝手な殿方は嫌いだわ」
 ひなげしは実能の手をはらい、几帳に身を隠した。
 今日はここで終いだな。実能は
「また訪います」
 と言ってその場を去った。後ろにひなげしの視線を感じながら。

 令子内親王が数人の供を連れて方違えをしていたときであった。ひなげしは供には加わらず、御所にとどまっていると実能は聞いていた。
「今日は絵巻物を持って参りました」
 几帳に向かって実能は語りかける。今日もひなげしは姿をあらわそうとはしない。
「何の絵巻ですか?」
 少し気取ってひなげしが言う。
「先日話していた狭衣物語です。生家から持って来たもので差し上げることは出来ませんが、共に眺めましょう」
「……」
 ひなげしは思案している風であったが、そのうちに几帳の横から姿を現した。
 ひなげしは額髪の美しい、細面の美人であった。顔色は透き通るように白く、つり上がり気味の目元が麗しい。よかった、と実能は秘かに安堵した。これだけ心をすり減らしておいて、醜女だったらかなわない。
 ひなげしは少し緊張していたようだったが、おもむろに口を開いた。 
「狭衣物語の絵巻は初めて見るわ。絵の入っていない巻物なら持っているのだけれど、それも姉妹たちと取り合いながら読んでいたから、こうやってしみじみと見ることは出来なくて……」
 独り言のようにそう言って絵巻物に目をやる。伏せた睫毛は長く、何ともいえない風情があった。
「姉妹がいらっしゃるのですね。皆あなたに似てお美しいのでしょうなあ」
「口がお上手ですのね」
 そう言うとひなげしは扇で顔を隠した。照れているのかもしれない。
「扇で顔を隠してしまっては、せっかくの絵も見れませんよ。実は黙って生家から持って来たのです。次またお目にかけられるとは限りません」
「そう、ですの」
 ひなげしは観念したのか扇を外した。視線を絵巻の方に向け、じっくりと目を凝らしている。実能は満足気にぱらり、と場面ごとに絵巻をたぐっていく。最初の絵は源氏宮を見つめる狭衣の君の姿を描いたもので、
「背燭共憐深夜月
踏花同惜少年春
『燭を背けては共に憐れむ深夜の月
花を踏んでは同じく惜しむ少年の春』」
という白楽天の詩が絵の上に綴られている。狭衣の君が持っている藤の枝と山吹の枝の花びらが柔らかく、微細に描かれていて、何とも言えず美しい。
「きれいね」
 ひなげしがうっとりとして言う。
「私、あの場面が好きだわ。狭衣の君が天に召されそうになる場面。絵巻物には載っているのかしら」
 そう言ってひなげしは実能を急かした。
「まあそう焦らずに。夜は長いのですから」
 実能はゆったりとした手付きで絵巻をめくり、狭衣の君が天に召されそうになる場面までを手繰った。
「ここでしょうか」
 実能が指をとめる。
「きっとそうだわ」
 絵巻には笛を吹いている狭衣の君が、羽衣を身に纏わされて今にも天上に召されそうな場面が描かれていた。この場面は帝から無理強いされた狭衣の君が仕方なく笛を吹き、
「……稲妻の光をたよりに空へ昇っていこう。だから、広い空のかけはしをわたしておくれ」
 と呟いたことから、童姿の天の若御子がやって来て、狭衣の君を連れていこうとしたという場面である。この光景を見た帝が女二宮を降嫁させようとし、それが狭衣の君の苦悩の始まりとなった、というのが狭衣物語の最初のさわりの部分だ。物語の中の狭衣の君は学才に秀で、容姿も抜群。音楽の才能まであって、当世の理想の貴公子とでも云うべき存在である。
「いやはや、『光をたよりに空へ昇っていこう』と呟いただけで天に召されそうになるとは。これは少し、やりすぎというものではないですかな」
「そうかしら。幻想的で素敵だと思うわ」
 ひなげしは目を輝かせている。やれやれ、どんな手強い女かと思えば、そこらにいる夢見がちな女房と何ら変わりないではないか。実能は肩透かしを食らったようであったが、そんなひなげしを可愛らしいとも思った。
「私は狭衣君にはとてもなれそうもありませんな」
「あら、別にならなくてもよろしいのではなくて?名門閑院流の御曹司なら、引く手あまたというものでしょう」
 ひなげしが急に現実的な声音になった。おや、と実能は思った。案外子供っぽいところがあると思っていたのに、現実を見据える目もきちんと持っているらしい。物わかりのいい女になるのかもしれないな。ひなげしの二面性に惹かれて、実能は久しぶりに胸が騒ぐような心地がしていた。
 そのとき、
「誰か、誰かある」
 という声がした。
「令子親王様のお声だわ。お帰りになったのね、行かなくちゃ」
 ひなげしはそう言うと慌てて髪を整え、几帳の奥へと消えていった。あたりにまた、静寂が訪れる。「私がお相手を……」、と名乗り出る身分の低い女房もいたが、実能は「いい」とやんわりと断った。
 
二人が恋人同士になるのに、そう時間はかからなかった。実能は美貌の一族と名高い閑院流の出なだけあって美しい容姿をしていたし、心遣いもきめ細かかった。当代一流の貴公子といっても差し支えない実能の自分に向けられる熱っぽい視線を、ひなげしはいつしか心地よいものと感じるようになっていた。そうした熱い思いに触れれば触れるほど、それに応えたくなるのが人情というものである。

「笑わなくてもえくぼが出来るのだね。面白いな」
 実能はそう言ってひなげしの頬にかかっていた髪をかき上げた。周囲には誰もいない。ここは実能の秘密の隠れ家だ。
「褒めているの?」
 ひなげしが言う。
「もちろん」
 実能が答える。
「ならいいわ」
 ひなげしは微笑した。えくぼがいっそう明確になる。実能はその頬を愛おしそうに撫でた。
「ねえ、狭衣物語の中では誰が一番好き?」
 ひなげしがはずんだ声で聞く。
「やっぱり狭衣の君かなあ」
「そうじゃなくって、女君の中では誰が好きかよ!」
 ひなげしが少し苛立った様子で実能の肩を揺さぶる。
「私は飛鳥井女君が好き。身分は低くても狭衣君のような貴公子と出逢えて、子供まで生めて。とりわけ狭衣の君の夢の中で口ずさんだ、
行方なく身こそなり行けこの世をば跡なき水の底を尋ねよ
『私の身は行方不明になってゆきます。この世に対して姿形も何も残っていない水の底を探し求めて下さい』 
という和歌が好きよ。悲しい歌だけれど」
 ひなげしは無邪気に語る。
「こんな話しを聞いたことはないかい?水底には、竜宮城という天国のような場所が存在するって。そこでは死は訪れることなく、人々は永遠の命を与えられるのだそうだよ」
「そう、素敵ね。飛鳥井女君も一瞬だけその竜宮城を垣間見たのかもしれないわね」
 ひなげしは声をはずます。狭衣物語では、飛鳥井女君は狭衣君から寵されたものの、狭衣君は身分低い飛鳥井女君を侮って、自分の名前すら明かそうとしない。その一部始終を見ていた飛鳥井君の乳母が飛鳥井女君を騙して売り飛ばそうとし、それに悲観した飛鳥井女君は入水しようとした。飛鳥井女君が狭衣君の夢に出てきたのは入水しようとする前である。夢で飛鳥井女君は自分が身籠っているとを告げていた。女君は幸い入水しようとしていたところを実の兄に救い出されて一命を取り留めた。狭衣君は飛鳥井女君を捨てたわけではなかったが、結果だけ見れば捨てたも同然だと思っていたことだろう。その後飛鳥井女君が産んだ子供のことを狭衣君が探しまわったところ、一品宮の元にいることがわかった。自分の子供を一目見たい、その一念から一品宮の御所に入ろうとした狭衣君は、あらぬ噂を立てられる。自分が一品宮を妻にしたいと思っているらしいというのだ。狭衣君の苦々しい結婚生活の始まりである。
「貴い身分で狭衣の君でさえも手に入らなかった、源氏宮が一番好きだな」
 実能がそっと呟いたのを、ひなげしは聞き逃さなかった。
 
 実能はひなげしを池のある別宅に誘い出した。この別宅は妻の一人の生家であり、本来なら実能が自由に出来るものではない。方違えだと称して妻を上手く言いくるめ、実能はある意図をもってこの粗末な邸を貸し切ったのであった。邸までは二人で牛車に乗ってきていた。実能は勝手知ったように邸の中を案内する。
「ここはなあに?」
 ひなげしが無邪気に局の奥の褥を指差す。
「こうするための場所ですよ」
 そう言うと実能はひなげしを押し倒そうとした。
「あら」
 ひなげしは軽く倒れてやった。ひなげしの方でもすっかりその気だったらしい。実能の手がひなげしの着物の合わせにかかる。粗末な衣裳で来いと言ったのに、ひなげしは高価そうな袿を着ていた。朽葉の色の見事さ、その張り具合。自分と逢っているときは少しでも美しくいようという女の心遣いが、実能にはいじましかった。衣裳を探る手が心なしか急く。
そのとき、水鶏が鳴いた。実能はこう詠みかけた。
「いかにせむ待たぬ水鶏はたたくなり
『どうしたものか(待っていたほととぎすは鳴かないで)、待ってもいない水鶏が鳴いているようです』」
「山ほととぎすからましかば
『山ほととぎすがこのように鳴いたらうれしいのになあ』」、
と続けたいところですけれど、盗作はよろしくなくてよ、実能様」
 ひなげしはくすくす笑っている。
「知っていたのかい?」
「ええ、有名ですもの、あなたのお父様の和歌は。百合花という女房とのやりとりとともに」
 この和歌は実能の父公実が、百合花という女房に贈ったと云われている和歌である。もう何十年前の出来事ではあるが、風流があると人々に広く喧伝されていた。
「ちぇっ、この和歌を詠むためにわざわざこのような場を設えたのになあ」
 がっくりと肩を落としている実能の姿を、彼より少し年上のひなげしは素直で可愛いと思った。実能の父は堀河百首を献上したことでも知られている、当代一流の歌人であった。帝の外叔父でもある。本当ならば、私のような女を恋人に持つような身分の人じゃないのに。ひなげしはしょげている実能をなだめるように後ろから彼をかき抱いた。男の汗の匂いが香と相まってむくりと漂う。これはきっと、昨日の女の香だわ。残り香をわざと焚いておいたのね。あるいは、北の方様の香かしら。そんな風に思ったが、ひなげしはそれすら愛おしく、実能にいっそうしがみつくのであった。
「ひなげし?」
 実能が不思議そうな声音で言う。
自分の不安な気持ちを、この男は知らない。私は男の恋人の一人に過ぎない。いや、恋人の一人に数えられるだけでもありがたいと思わなければならない。全ては他の公卿と張り合おうとする男の気まぐれから始まった、身分違いの恋。ひなげしはいつかの問いを思い出していた。男は自分と逢瀬を重ねながら、その一方で高貴な身分の源氏宮が好きだという。身勝手、だと思う。男なんてそんなもの、割り切ったつもりでいたのに……。
選ばれた者だけが持つことを許される、傲慢と、矜持。あなたを恋人に持てる事で、私の自尊心がどれほど満たされているかが、あなたにわかるかしら。女房たちが羨望の目で私を見ている理由に、あなたは気付くかしら。私は選ばれなかった者。でも、選ばれた人を享受する、自由はある……。
実能はひなげしの振る舞いを共寝を開始する合図だと思い違えて、姿勢を変えて女に覆いかぶさった。ひなげしは何も言わず、男の為すがままになっていた。

 ある日
「中宮権亮殿」
 と実能は公教に声をかけられた。
「蔵人少将殿。なんでしょうか?」
 実能は単純に驚いた。この甥とは特別親しい間柄というわけではなかったからである。実能はいつか男たちと競い合うようにしてひなげしを訪ったことを忘れ、すっかりひなげしにのぼせ上がっていた。
「跡なき水の底には宮殿がある、というのは本当ですか?」
 公教が世間話のように言う。公教はひなげしの妹から、姉が実能と語り合ったことを聞いていたのだ。ひなげしの妹は待賢門院璋子に仕えていた。女院の実甥である公教は、御所に入り浸るうちにひなげしの妹小百合と親しくなっていたのであった。
「はて、何のことでしょうか」
 実能は不意を衝かれ、頭が真っ白になっていた。竜宮城のことはひなげしと私しか知らないはずだ。ひなげしはこの甥とも通じていたのだろうか。そういえば、私がひなげしの元へ通うようになったのは、この甥の鼻を明かしたいという想いからだった。すっかり忘れていたのに。実能は全てが忌々しく思われた。
「とぼけなくていいですよ」
 公教は実能の腹を小突いた。どこか馴れ馴れしい。これも同じ女を共有したという、馴れ馴れしさからくるのだろうか――。実能はそんな風に思った。
「失礼する!」
 実能は大声でそう言うと、その場から立ち去った。
「中宮権亮殿?」
 公教は若者らしくおろおろしはじめた。いつもすかしこんでいる叔父が最近やけに鷹揚なふうになったから、これはどうしたことだろうと、話しを振ってみただけなのに。何か誤解が生じたのだろうか。公教は実能を追いかけようとしたが、実能はすでにあたりから消えていた。公教は気になったが、ええい気の合わぬ親族のことなどかまうものかと、頭を切り替えた。

「誰か、誰かある!」
 実能は令子内親王の局に来ていた。もう夜なのに。令子内親王付きの女房たちは不審に思ったが、大方ひなげしが目当てなのだろうと目星を付けた。そしてひなげしを出し、
「ここにおります」
 と返事をさせた。実能はひなげしを認めると、ひとり言のように呻いた。
「公教殿とは何回寝た。実の伯父と甥を両天秤にかけてみて、満足か」
「何を仰っているのですか?」
 ひなげしはわけがわからず、それだけを口にした。
「蔵人少将のことだよ、情人の名前もわからないのかい?」
 皮肉交じりに実能が言う。ひなげしは、ああ、あの人のことね、とようやく合点がいったようであった。
「私はあの方とは何も……。そんなことよりも、話さなければならないことがあるのです」
 ひなげしがあらたまった風に話をしようとするのを実能は遮り、
「何回寝たのかと聞いているのだ!」
 と逆上した。その剣幕に、ひなげしはすっかり気圧されてしまった。
「ですから何も……」
 というのがやっとであった。
「もういい。もう逢わない。お別れだ」
 実能はそう呟いて立ち去ろうとした。
「待って。私はあなたの子を身籠っているのよ」
 つとめて明るくひなげしが言う。
「子供、だと」
「そうよ、私とあなたの子供」
 ひなげしはそう言って実能の手を取った。その手を自分の腹に押しあてる。
「間違いないわ。もう三月も月のものがなくて……。吐き気もするし」
「俺の子供だという確証はあるのか?」
 実能はじろりとひなげしを見た。
「確証って、私はあなた以外とは寝てないし……」
「そんな言葉が当てになるか」
 実能はひなげしの腹から手を振り払った。実能のただならぬ様子に、ひなげしはやっと気付いた。
「私を、捨てるの?」
 ひなげしは涙を浮かべて実能を見た。愛くるしいえくぼも、美しい黒髪も、以前のひなげしとは変わりがない。違うのは、ひなげしを見据える実能の‘目,だけである。
「捨てたのは、先に手を離したのは、どっちなんだ――」
 実能は暗い表情でそう言うと、ひなげしの方を見ようともしなかった。
 ひなげしは茫然としていたが、他の女房たちに
「追わなくていいの!?」
 と言われ、ようやく正気を取り戻した。局を去り、外に出ている実能に話しかけるが、実能は取り合わない。
「あなたは飛鳥井の君を見捨てた狭衣の君と一緒だわ。いいえもっとひどい。私は他の殿方と通じてなんかいないのに――!」
 ひなげしは思う様に叫んだが、実能は聞き入れなかった。
 この一件は当時、世間の語り草にもなったという。

 ひなげしはその後女児を産んだが、実能は自分の子供だと認めようとはしなかった。ひなげしは悲観し、実能の同母妹である待賢院璋子の局ではなく、別の妃の局に娘を女房勤めに遣った。娘の女房名は春日局。鳥羽院から寵を受け、頌子内親王を儲けた美福門院得子付きの女房である。
 実能は春日局が鳥羽院の寵愛を受けるにあたって初めて実子だと認め、父子の儀を執り行った。そのときに、「跡なき水の」の誤解も解けたという。ひなげしはとうに亡くなっていたという話しだが。
2013-07-12

小説「油火 (院政期歌人伝―待賢門院堀河・兵衛姉妹、 藤原実能、藤原多子―)1」

しとしととした湿り気を帯びた局の内は暗かった。そこで待賢門院堀河・兵衛姉妹は雑人に油綿を持って来させた。そして油綿の香油をさしたところで大変良い香りがしたので、堀河がこう詠みかけた。
「ともし火はたき物にこそ似たりけれ
『このたき火は薫物のようだわ』」
 すると妹の兵衛が
「丁字がしらの香やにほふらん
『それは丁子(香の一種)ではないけれど、丁子頭の香りが匂うのでしょう』」
 と続けた。
「ともし火はたき物にこそ似たりけれ丁子がしらの香やにほふらん、ね」
 二人は揃って言うと、くすくすと笑った。「私たちったら、明けても暮れても和歌ばかりね」
 堀河が言う。
「本当に、お籠りのときぐらい仕事のことは忘れてもいいのに」
 兵衛はそう言って笑う。
「ねえお姉さま、和歌比べをしましょうよ」
 兵衛が「お姉さま」と語りかけるのは二人きりのときだけである。ときの上皇の后待賢門璋子付きの女房である二人は、局においては互いを「堀河殿」、「兵衛殿」と呼んでいた。そんなに形式張らなくても、とおおらかに言う女主人の言葉はありがたかったが、二人は公私の分け方をきちんとしていた。そのうちの一人が、「お姉さま」と親しみを込めて一方に語りかける。よほど閉鎖された空間に違いない。
「いいわよ。ではお前からお詠み」
 堀河が目配せをした。よほど自信があるののだろう。
「ではいきますわよ」
 対する兵衛は好戦的だ。
「花の色に光さしそふ春の夜ぞ木の間の月は見るべかりける
『花の色に光がさし添えられる春の夜には、木の間の月こそ見るべきものであるよ』」
「まるで情景が浮かぶようだわ。月は偉大ね」
 堀河が言う。
「お姉さまの番よ。春の歌を詠んだから、今度は夏ね」
「はいはい」
 妹をなだめるように堀河は言い、次にこう詠んだ。
「七夕の逢ふ瀬絶えせぬ天の川いかなる秋か渡り初めん
『織姫と毎年絶えず逢って来た天の川。その川を一体どんな秋に彦星は渡ったのであろうか』」
 すると兵衛は、
「新しい恋歌ね。毎年逢っているという七夕の織姫と彦星を、逢うことの絶えがちな人間の男女と比べているのね」
「あら、ありがとう」
 堀河がお礼を言った。この歌は斬新過ぎて賛否両論があったのだ。また、七夕という夏の季語に秋を続けるのはおかしい、という意見もあった。我が妹ながら和歌に対する造詣が深いと堀河は感心した。
「今度は秋ね、じゃあ……」
 兵衛は考えこんだ。
「うーん、即興だと難しいわ」
「なら私が秋の和歌を詠むわね」
 堀河が言う。
「露しげき野辺にならひてきりぎりす我が手枕の下に置くなり
『露が繁く置いた野辺に慣れて、こおろぎは涙でぬれた私の手枕の下で鳴いていることよ』」
「古今集の、
秋ならでおく白露は寝覚めする我が手枕のしづくなりけり
『秋でないのに置く白露は、夜目が覚めた自分の腕枕の涙の滴だ』
を踏まえているのね。露の繁った野辺というのが情緒深いわ」
 兵衛が古歌を引き合いに出して講釈をたれる。そしてそれに続けて
「ならば私は冬の歌として、年の暮れに詠んだものをあげます」
 と言う。
「返りては身に添ふものものと知りながら暮れゆく年をなにく慕ふらん
『新しく立ち返っては、年齢として見に沿い加わって老いに近づくものと知っていながら、暮れていく年をどうしたっているであろうか』」
「まあ随分と老成した歌だこと。おばあちゃんみたいよ」
 堀河がおっとりと笑う。
「おばあちゃんよ、どうせ」
 兵衛が淡々と言う。
「次は恋歌」
「憂き人を忍ぶべしとは思ひきや我が心さへなど変わるなん
『憂く辛かった前世と今生の契りを思うにつけても、私の心は変わることはないのです』」
「少し地味過ぎはしないかしら。お姉さまだったらもっと華やかなものも読めるでしょうに、どうしてこの和歌を?」
「初めて運命を感じた殿方に贈ったものなのよ」
「なるほど、そういうことね」
 兵衛はしたり顔だ。
「今度は雑歌ね」
「これや夢いづれかうつゝはかなさを思ひ分かでも過ぎぬべきかな
『これが夢か、どちらが現実か、その儚さを思い分けても、どちらにしても過ぎゆくものであるよ』」
「いいわねえ。単調な言葉の連続の中に、哀愁がこもっていて。素敵よ」
 と堀河。
「あとは好きに詠んでいいかしら」
 兵衛が言う。
「そうね、自信作からどうぞ」
「よろづ代の例とみゆる花の色をうつしとゞめよ白河の水
『万代まで続くあかしと見える花の色を、散った後までも映しとどめておくれ、白河の水よ』」
「この歌は物語などにも収録されていますわ」
 兵衛が少し興奮して言う。 
「ながからむ心も知らず黒髪の乱れて今朝はものをこそ思へ
『末長く愛してくれるかどうか、あなたの心もわからず、黒髪が乱れるように心が乱れて、今朝は物思いにふけっていることだ』」
「この歌は百人一首にも採られてよ。」
「まあずるい。後世のことを持ち出すだなんて」
「最初にやったのはどちらかしら」
 堀河はそう言うと鼻唄を歌った。
 ここは霊界。死後百年以上経った者の魂が集まる場所である。堀河と兵衛は昔が懐かしくなり、生前の一場面を再現していたのであった。二人は十二単から姿を変え、二つの炎になった。
「本当に定家卿もどうしてお姉さまの和歌だけ百人一首に採り入れたのかしら」
「バランスを取るためでしょうよ。同時代の歌人をそう何人も採るわけにはいかないわ」
「そりゃあそうでしょうけれど……。私のことは定家卿の従兄弟の実定殿から聞いていたでしょうに」
「百人一首は定家卿のお遊びから始まったものだもの。個人の遊興にケチは付けられないわ」
「そうね、百人一首はもとは宇都宮頼綱卿に頼まれて、定家卿が好きな和歌を百首屏風に書き連ねたものだものね。定家卿もまさかこんな形で後世の人に伝わるなんて思いもしなかったでしょうよ」
「百首、というのがいいのでしょうね。わかりやすくて。百人一首をかるたに見立てた人はすごいと思うわ」
「本当に。子供からお年寄りまで楽しめて、楽しいわよね。坊主めくりなんて遊びもあって」
「坊主の方が可哀想だと思いますけれどね」
「まあね。でもやっぱり羨ましいわ。名前が覚えられるということは」
「お前の『よろづ代のーー』だって有名じゃないの。『今鏡』という歴史物語の中に編み込まれて」
「映しとどめよ、ね。白河の水は今では影も形も残ってないわ」
「思えば絶頂期だったわね。私たちのお仕えした待賢門院璋子様の」
「そうですわね。白河院様が崩御したあたりから、鳥羽院様と待賢門院様、お二人の仲が軋みはじめて」
「というよりは、鳥羽院様が待賢門院様のことを一方的に避けはじめたのじゃなかったかしら。きっと白河院様が崩御された際に、待賢門院様が悲痛に暮れているのを見て、お疑いの心が芽生えてしまったのね」
「お疑いの心というと?」
「待賢門院様が愛していたのは、自分ではなく白河院様であったのではないのか、というお疑いの心よ」
「そんな……、待賢門院様が最後に愛したのは鳥羽院様だったというのに」
「男の方って、意外と疑り深いのよね。目に見えるだけのものを信じればいいのに、余計なことを想像してしまうの。それに、けっこう過去を引きずるところがあるわね」
「それはいえるわ。私の恋人にもそんな人がいた。『あいつとは寝たのか、言ってみろ』って。過去は過去、今は今、どうして割り切れないのかしらねえ」
「本当に。白河院様は待賢門院様の養父なのだから、喪って悲しむのは当たり前よ。そう目くじらを立てることもないのに。鳥羽院様の気持ちもわからなくはないけれど」
「そうね。でも私、鳥羽院様のことは許せないかもしれない。だって崇徳院様のことを、最期まで御自分の息子だと認めなかったっていうのだもの」
「そうらしいわね。それが保元の乱につながったという話しだわ。お優しくて、教養があって、崇徳院様ほど治天の君にふさわしい御方はおられないと思うのに。結果、四の宮である後白河院様が治天の君となられて、源平の争乱を引き起こして、天皇の地位を失墜させて。四の宮様は待賢門院様の御子だから、あまり悪くは言えないけれど、それにしたってお粗末だったわよね」
「えらく辛口ね」
 そう言って兵衛は笑った。
「でも後白河院様も文化面では見るべきところがあると思うわ」
 堀河が言う。
「そうね、今様の書である『梁塵秘抄』を編纂させたり、『千載和歌集』を勅撰和歌集として編ませたり。病草子なんてものを収集したりもしていたらしいわね」
「病草子というと?」
「いろんな病に罹った人の絵を集めたものよ」
「まあ悪趣味な」
 堀河が眉間にしわを寄せた。
「確かにそうね。でも芸術的には高く評価されているらしいのよ。『帝王』の趣味とは言い難いけれどね」
 兵衛はくすりと笑って言った。
「千載和歌集の編纂者の俊成殿はさすがよね。歌の配列が巧みで、私たち姉妹の和歌が並んでいる箇所も多いわ」
「私たちは当時の歌壇を代表する存在でしたからね」
「自画自賛ね」
 兵衛はからかうように堀河を見やった。だが兵衛も同じ気持ちである。
「歌壇というのはいいわね。身分の低い者であっても、歌さえ素晴らしければ後世に名を残すことが出来る」
「そうね。でもそうしたのは『詠み人しらず』になっていることも多いわね」
「そうした扱いに憤慨したのが西行殿よね」
 そう言うと堀河はくすくす笑い出した。
「歌聖なんて呼ばれているけれど、少なくとも生前のあの方はとても『聖』っぽくはなかったわ」
「子供を蹴り飛ばして出家したというエピソード、ああいうのが現代人には好まれるのでしょう」
「家族のことが気になって、出家してからもこっそり家の様子を窺う人だったのにねえ」
「高貴な女性への恋に破れて、というのもあるわね、出家の理由」
「憧れていましたからねえ、待賢門院様に。西行殿は」
「崇徳院が私的に開かれた和歌会で、上にあげられた御簾を降ろしたときに一目見ただけだったのにね。風の強い日だった。ふんわりと待賢門院様の髪が揺れて、その場に香が馨って。映画のワンシーンのようだったわ」
「映画だなんて、また随分と当代風の言葉を使うこと」
「だってここにいて長いのだもの。天上人としては、地上の様子を見ることだけが楽しみなのよ」
「そうね。お姉さまはまた早くに亡くなられてものね。私はけっこう長生きしたけれど」
「それでも私も長生きした方だったけれど。待賢門院様を看取ることが出来て幸せだったけれど、やはり悲しくもあったわ」
「臨終の際には鳥羽院様も駆け付けたのよね。自ら馨を打って泣き叫びながら待賢門院様を看取ったというわ。悔恨の気持ちもあったのでしょうね。『もっと大事にしてやればよかった、どうして私は璋子を信じることが出来なかったのだ……』と周囲に洩らしていたそうよ。あとになって後悔したって遅いわよねえ」
「本当にそうだわ。法金剛院での日々はどうでしたの?」
「悟りを開いたのかと思うくらい、晴れ晴れとしていましたよ。初めの方こそ寂しそうでしたけれどね。でもあるとき『この静かな御堂で亡くなった子供たちの冥福を祈ることが出来て、私は幸せよ』って、微笑まれたわ。待賢門院様は最後まで待賢門院様だった。優しくて、朗らかで、いつも周りの幸せを考えていらして。吉祥天女の様な方ですよ、あの方は」
「吉祥天女。本当にそうね。気まぐれを装って女房たちに衣裳を分け与えたり、元気のない者を即座に笑わせたり。他の方に仕えると、待賢門院様の素晴らしさがよくわかるわ。上西門院統子様も、待賢門様とは親子ということもあって似通るところは多いのだけれど、気配り心配りという点ではやはり違うわね」
「それでも上西門院様は、美しくてお優しくて、理想の女主人だったと思いますよ。内親王ということもあっていささか世事に疎いところはありましたけれどね。美福門院得子様の局は殺伐としていたという話ですよ。鳥羽院が自分の女房に目移りしないかといつも目を光らせていたというんですからね。これは美福門院様が待賢門院様のライバルだったから言うんじゃありませんよ。知り合いで仕えていた者がいて、その人から聞いたのです」
「大体さして美しくもないのに、鳥羽院様は何が気にいって美福門院様を寵愛なさったのかしらねえ。安楽寿院の似絵が残っていたのはよかったわね。目が細くて、口角が下がっていて、今はもちろん、あの当時の美人の基準からも外れていますよ」
「類稀なる美貌の持ち主、ってよく聞くけれど、似絵を見た人はそうは思わないでしょうね」
「『殺生石』に出てくる玉藻前と混同されているのね。玉藻前は類稀なる美貌の持ち主で、大変な博識という設定だから。それにしても何とかしてほしいわ。美福門院様が待賢門院様より優っているところなんて、若さだけよ」
「まあそうかっかしないで。美福門院様といえば、皇女の八条院様も面白いわよね。健春門院滋子様のところに仕えていた俊成殿の娘が、八条院様に出仕することになって驚いたというわ。御所の汚さと、女主人のあまりの大雑把さに」
「女房たちがちぐはぐな衣裳を着ても気にも留めなかったっていうのだものねえ。楽といえば楽だけれど、せっかくの御所勤めなのだから、清潔に、心地よく過ごしたいものよねぇ」
「女房というものは、御所を評判にするために心を砕くのが常ですよ。紫式部だってそのために清少納言を意識していたじゃありませんか」
「確かにそうね。『清少納言こそはしたり顔にいみじう侍りける人』って、散々な書きようよね。これは作家としての敵対心というより、一条天皇の中宮彰子様の局の評判を意識してのものだと私は思っているわ。一条天皇の皇后定子様の局の素晴らしさを、清少納言は枕草子で声高らかに謳い上げていたものね。紫式部はそこに刺激されてあの一文を書いたの。女房勤めをする者なら、その気持ちがわかるはずよ」
「そうね、今なら紫式部の気持ちがよくわかるわ。ねえ、紫式部の名前も出たことだし、和歌比べの次は物語比べをしてみなくて?」
「いいですわね。今度は負けないわよ」
「では私から行くわね。タイトルは『下紐は』よ。藤原実能殿を主役にした物語なの」
 堀河はそう言って微笑すると、一人語り始めた。
2013-07-12

エピローグ「月の行方」

――二条天皇の死から五年後の永万元年(1165年)。
二条天皇は生前に中宮育子の養子順仁親王に皇位を譲っていた。
順仁親王の実母は伊岐致遠の娘である。
順仁親王は母親の身分が低かったために、廷臣たちからは明らかに侮られていた。
育子は摂関家の故大殿藤原忠通の庶子である。
姝子内親王や多子を後宮に入れても皇子が望めそうにないと判断した二条天皇は、摂関家の子女にも白羽の矢を立てたのである。
これには摂関家の勢力を自らの陣営に取り込もうという狙いもあった。

二条天皇と父上皇との対立は、二条天皇の死をもって一時解消したかに見えた。
だが、二条天皇の近臣だった者と、そうではない者、両者が互いに牽制し合うという状態は続いていた。

二条天皇の後継者である主上の取り巻きの中心人物が育子の異母兄である基通である。
基通は長寛三年(1165年)に二十二歳で主上の摂政となっていた。
若過ぎる摂政であった。
側近とも言うべき存在であった藤原経宗は配流後に召喚されてからは大人しくしていたし、藤原惟方に至っては出家して政界からはすっかり身を引いていた。
経宗は自身の立ち位置を明確にせず、様子見を決め込んでいるような節さえあった。
政治の在り方を説いた「大槐秘抄」を二条天皇に献上し、朝政の中軸を担った藤原伊通は、この年の三月に没していた。
平治の乱で藤原信頼・源義朝軍を破った平清盛に至っては、妻時子を二条天皇の乳母として出仕させる傍ら、上皇に対しても蓮華王院という仏堂を献上して両者を天秤に掛けていた。
周囲はその様をして「あなたこなたしける」と評したという。
天皇という優位な立場にいながら、主上の陣営は頼りなかった。
上皇はそこにつけ込んだのである。
堂上平家である時子の異母妹小弁の局は上皇の寵を得、皇子を産んでいた。
二条天皇が死去するとすぐに上皇は念願だった皇子の親王宣下を行った。
憲仁親王である。
憲仁親王をいずれ皇位に、という上皇の意向は、誰が見ても明らかだった。

十二月、病を経て出家していた多子は、近衛河原の御所に住まいを移した。
近衛河原に居を移してからは、八条院や上西門院、同母兄弟などと交際していた。
八条院暲子内親王は美福門院所生の鳥羽院の皇女である。
八条院の同母妹が高松院姝子内親王だ。
だから二人は始めから親しかったというわけではない。
それがいつの頃か八条院が多子宛てに便りを寄こし、親交が深まった。
八条院は同母弟である近衛天皇の后であった多子に、好意を寄せていたようであった。
豪放磊落な性格の八条院に唖然とすることもあったが、その天衣無縫の明るさに多子は慰められることも多かった。
上西門院統子内親王は多子の祖父実能の同母妹待賢門院璋子の実娘で、多子とは従姉妹半の関係にあった。
上品な人柄のお優しい佳人である。

その日多子は八条院の邸に招かれていた。
「太皇太后、実はお願いがあるのです」
八条院がからりとした明るい声で多子に話しかける。
八条院は父母に愛され、莫大な荘園を相続していたから、意のままにならぬことなどほとんどないようであった。
その八条院が多子にお願いがあるという。
一体何だろうと多子は思った。
「私が庇護している御子の元服の式に、太皇太后のお邸をお借りしたいのです。その御子というのは、実は上皇の皇子なのです。あなたと同じ閑院流の母を持ちながら、母が一介の女官であるために親王宣下を受けられなかった、可哀想な子供なのです。最初は仏門に入っていたのですが、師が亡くなったことをきっかけに還俗しました。二条天皇が亡くなった今、次の帝となるのはこの私だと言い張って。それも面白いかと、私は思っております」
そう言うと八条院は落としていた視線を多子に合わせた。
目が少し悪戯っぽく動いたかと思うと、八条院は多子の手を取った。
「お願いですわ、太皇太后。私はあの子に賭けてみたいのですの」
「賭ける?何をです?」
多子は訝しげだ。
「最近の世の中は面白くないことばかり。上皇は小弁という平清盛の義妹を寵愛して、その女の産んだ自分の子供を御位に付けたいと思っているのだとか。二条天皇の皇子であり、御自分からは孫にあたる主上のことをあからさまに軽んじて。確かに主上の母親の身分が低いのは周知のこと。ですがこのようなことはあってはならない、と私は思います」
「あら、それはおかしいわ。主上を蔑ろにするのは許さないと仰っているのにもかかわらず、八条院様はその皇子を皇位につけたいと、そういうの?」
多子が口を挟む。
「そうではありません。私はただ、一石を投じたいのです。このおかしな秩序が保たれている、世の中に。主上と平清盛の息がかかった憲仁親王、そして先ほど話した上皇の皇子。駒比べは駒が多い方が楽しいでしょう?」
「それはそうですわね。でも、ちょっと悪趣味、というものではないかしら。女院という御位にあるあなた様のすることではないと思いますわ。」
「女院という立場だからこそ出来ることもあるのよ」
そう言って八条院は楽しそうに笑った。
「おかしな秩序、ね。確かにそうだわ。保元・平治、二つの乱が収束して、清盛殿が最終的な勝者となって。これは偶然でしょうけれど、妻の異母妹が上皇の寵幸を得るようになって、皇子まで生んで。その皇子と、上皇の孫である主上。この二人がどちらに比重を置かれるでもなく、相並んでいるからこそ、今の世の中は平和なのね」
多子が続ける。
「でもそんな平和は脆くも崩れ去るのが条理というものだわ。保元の乱のときも、平治の乱のときも、そうだったじゃないの。全ては均衡。治天の君が全てを采配する時代は、もう終わったのよ」
「そう……」
多子は少し考え込んだ。
思えば私が二条天皇に再入内させられたのは、平治の乱が起こってから一ヶ月も経たない頃だった。
私は政治的な理由で入内させられたのだ。
二条天皇の好色ばかりではない。
考えてみれば、一天万乗の君だったはずの二条天皇とて、幸福だったとは言い難い。
あの方もまた、苦しんでいたのだろう。
 
あの方を苦しめていたのは、皇家のあるべき姿を保たねばならぬという過度な責任感だったように思える。
近衛天皇もそうだった。
後継ぎを残さねばならないという重圧が、徐々に体を蝕んでいったような気がする。
帝とは、皇家の有るべき姿とは、一体何なのか。
わからない。
だからこそ、私は八条院様に協力しよう。
このおかしな世の中に、一石を投じてみよう。
それがさらなる秩序の乱れを引き起こしたとしても、かまわない。
私はもう、苦楽は味わいつくしたから。
気がつくと、多子は八条院に向かって微笑んでいた。
「お受けいたします」
と。

このときに元服を遂げた皇子こそが以仁王。
平家打倒の令旨を揚げた人物である。


多子は長寿を保ち、健仁元年(1206年)、六十一歳で没した。
保元・平治の乱に巻き込まれ、源平の争乱を見届けた人生だった。
2013-07-12

歴史小説「雲居の月4」

後宮での日々は、辛いと形容することすら憚られるようなものだった。
帝との共寝は、凌辱されているような心地しかしなかった。
身を固くし、それが終わるのをひたすら耐えているだけ。
そんな多子に、帝は終始苛立っているようだった。
それでも多子は三回に一回ぐらいの頻度で召しに応じた。
相手は帝、逆らうことは本来なら許されない。
気分がすぐれぬと滅多に参じようとしないのは、多子のせめてもの抵抗だった。

多子は次第に笑うことがなくなっていった。
「太皇太后、せめて私と逢っているときだけは、私のために笑ってくれないか」
帝のこんな嘆願も、多子には届かなかった。
身体を組み敷かれていながら、多子は顔だけを横にそむけた。
――誰の声も、私には届かない。
閨でのことは帝付きの女官でもさすがに口出しは出来ないらしく、憔悴した様子で寝所から出ていく帝を見ても、女官たちは物言いたげに多子を見るだけだった。
私は鳥籠の鳥のようだ、と多子は常々思っていた。
色鮮やかな見た目の渡来品の鳥は、籠から出ても逃げ出すことが出来ないように、羽を削ぎ落される。
そして飽きたら見向きもされなくなる。人間たちの身勝手な理由で、鳥は自由を奪われるのだ。
私もそんな鳥たちと同じ。現世には、私の味方などいない。お養父様もお養母様もこの世にはなく、実の両親からは捨てられたも同然だ。帝からも見向きもされなくなったなら、いっそ楽になれるのだろうか。
そんなことを一通り考え、多子は自嘲気味に嗤うのだった。

俗謡である今様に耽る父上皇とは違い、帝は宮中の伝統的な文化を引き継いでいこうとしていた。
そのために、当代一の貴婦人とでも云うべき多子を後宮に引き入れたのであった。
多子は帝が見込んだ通りの、才色兼備で奥ゆかしい女性だった。
例えば、多子は身内である兄弟たちが御座所に参上したときでも帳や敷物などの用意だけでなく、側に仕える女房たちまで万事に好感が持てるように取り繕い、客人が参上するからといって改まって台盤所をあれこれ片付けて御几帳を持ち出すということもなく、前もって全てを用意しておいたということである。
多子は書の筆跡が見事で、絵を描かせても並の筆使いではなかった。
また人前では琴や琵琶などを弾こうとしなかったが、堪能である人にも引けをとらず、音楽もよく理解していたという。
和歌に至ってはここで語るまでもない。

 ある日、多子は里邸で歌合を開いた。
歌合には同母兄である実定、同母弟である実家、母方の伯父にあたる俊成などを招いた。
「太皇太后様、お題は?」
実定が聞く。
「天翔(あまかけ)るもの、で」
多子が言う。自分も鳥にでもなって大空を翔たいという願いからだった。
「では私から」
茵(しとね)に座っていた俊成が一歩前に出、こう詠んだ。
「須磨の関有明の空に鳴く千鳥かたぶく月はなれもかなしや
『須磨の関の有明の空に鳴く千鳥よ、沈もうとする月をおまえも悲しく思うのか』」
「千鳥か、ならば私はうぐいすだ」
そう言うと実定は美しい声でこう詠んだ。
「ほととぎす鳴きつるかたをながむればたゞ有明の月ぞ残れる
『ほととぎすが鳴いている方を見ると、ただ有明の月だけが残っている』」
「俊成殿の和歌につなげて『有明の月』を持って来たところはよいけれど、ほととぎすがいない、というのは歌題に沿わないのではなくて?」
多子が言う。
「想像すればよいことですよ」
実定は余裕だ。
「天翔(あまがけ)するものは鳥とは限りませんな。こんな和歌はいかがでしょう」
俊成はそう言うと、実定に負けじと声高らかにこう詠んだ。
「世の中よ道こそなけれ思ひいる山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
『この世には憂さを逃れる道はないのだなあ。深く思いこんで山奥に分け入ったが、(ここにも辛いことがあるらしく)鹿が悲しげに泣くのが聞こえる』
「音が翔るという発想はよいですが、天というよりは地を駆け巡る、と解釈した方が良さそうな和歌ですね」
実家が知ったふうに講釈をたれる。
俊成は甥の言葉に微笑している。若者の率直な感想を聞くことが出来、喜んでいるのだ。
「太皇太后からも一首賜りたいものですな」
「……」
多子はしばし考えていたが、この世への恨みつらみを詠んでしまいそうだと思ってやめた。
それでも身内たちとのささやかな歌合は心が慰められた。
この歌合は大変趣きがあると評判になった。
太皇太后多子の人柄もそれと共に喧伝されたという。

帝は身内の間だけで歌合が開かれたことを聞き、これをやめさせた。
後宮ではなく、里邸で歌合を開いたことが気に食わなかったのである。
帝は嫉妬していたのだ。
そんな帝の仕打ちに、多子はいよいよもって絶望した。
私には、歌合を開く自由さえ与えられないのか、と。
多子の表情はますます暗いものになった。
悲哀に満ちたその様は、皮肉にも男心を惹きつけてあまりあったが。

十日ほどの間に何度も後宮を訪れる帝に対し、多子は
「もっと政務にお励みになった方がよろしいかと。無塩君の故事は、主上も御存じでしょう」
と遠ざけた。
無塩君の故事とは、酒色に溺れて政治を疎かにした宣王に、醜女である無塩君という女が、「私をお后にして政治に集中して下さい」と進言して王の目を覚まさせ、国を安寧にした、というものである。
「無塩君のような醜い女と美貌の后であるそなたとを、どうして同じものとすることが出来よう」
帝はそう言って多子が顔を隠すようにかざしていた扇を床に落とし、そのまま多子を床に押し倒した。
「主上、まだ人が……」
局の内にはまだ人がいた。
「よい、このまま続ける」
帝は軽く手を振って人払いをさせると、人が退けるのも待たずに行為に取りかかった。
多子は何も見まい、と固く目を閉じた。
 
帝は病弱な方ではなかったが、壮健な身体の持ち主とは言い難かった。
再入内後、五年ほどの月日が過ぎていたが、その間幾度となく病を経ていた上に、父上皇との対立もあって精神は疲弊しきっていた。
そのうちに帝の病が篤くなった。帝はもう長くはないと宮廷内でも囁かれるようになっていた。
そんなある日、
「太皇太后様、主上がお呼びです」
と言って命婦が多子の局を訪れた。
命婦の顔色は蒼白かった。
命婦は帝から寵愛を蒙っている女房の一人である。
年嵩ではあったが、黒目がちの瞳が美しく、たっぷりとした腰付きには人の気持ちを和ませるものがあった。
「気分がすぐれぬとお伝え下さい」
多子がそう言って命婦から目を背けると、突然
「あなた様は、主上のお気持ちをちっともおわかりでない!」
と命婦が叫んだ。が、すぐに我に返ったとみえ、
「口が過ぎました。お赦し下さいませ」
と言って命婦は平伏しだした。多子は命婦を哀れだと思った。そこで
「わかりました。参じましょう」
と言って準備に取り掛かった。
女郎花の衣裳を着込み、帝から賜った扇子を持って清涼殿へと向かった。

多子は清涼殿の几帳の内に案内された。
帝の様子はいつもの堂々とした様子とは違っていた。
大分弱気になっているようだ。
目の焦点すら合っていない。
多子を案内した命婦が
「太皇太后様のお見えです」
と帝の耳元で囁いた。
帝は囁かれた言葉の意味がつかめなかったらしい。
少し間があった。
が、やがておもむろに口を開いた。
「太皇太后、私はあなたの心の隙間を埋めることは、とうとう出来なかったな」
「……」
「だが私にも私なりの思いがあったのだ。我こそは鳥羽院の正統なる後継者、皇家の頂きに立つ者、という強い自負の心が。そしてその自負心がときには人を傷つけもした。今まで傲岸不遜な振る舞いをして本当に悪かった。今となっては詫びる方法も思いつかない」
そこで帝は深呼吸をした。
「私の心は菅家が初めて作ったという漢詩と同じだ。」
そう言うと帝はその詩を詠唱してみせた。
「月耀如晴雪『月耀は晴雪の如く』 
 梅花似照星『梅花は照星の似し』
 可憐金鏡転『憐ぶべし金鏡の転りて』
 庭上玉房馨『庭上に玉房の馨れることを』」
表情は少し苦しげである。
「あなたは月そのものだった。晴れた日の雪のように光り輝いていて、私にとっては眩し過ぎた。私の方を見てくれないあなたについ反発して、わざと冷たくあたってしまったのだ。本当に申し訳なかった。いくら詫びても足りない」
 そして帝は感極まったようにこう続けた。
「私の今生の頼みだ。一度だけ、私に笑いかけてくれないか。月下にその花を散らすであろう、梅のような私の境遇を、憐れむのでも、嗤うのでもいいのだ」
帝は息も絶え絶えに言う
――笑い方は、とうに忘れた。
それでも多子は次の瞬間、微笑んでいた。
口角は醜く歪んでいることだろう。
目は笑っていないだろう。
だが、そんなことは帝にとってはどうでもよいことであった。
同情であっても、憎悪からであっても最期まで手に入らなかった月が自分に笑いかけてくれた。
その事実だけで、帝の心は充足感でいっぱいだった。
その直後、帝は意識を失ったようだった。 
「主上、主上」
傍仕えの者の叫び声が御簾内に響き渡った。容体が急変したらしい。多子はそっと御簾の外に出た。
  
数日後、多子は帝が息を引き取ったことを自身の局の内で知らされた。
多子は別段何の感慨も催さなかった。
多子の冷たく凍てついた心に届くには、二条天皇と諡号された帝の最期の言葉は遅すぎたのである。
帝の浄土への土産に贈った微笑み。
これが何を意味するのかは、多子にもわからなかった。答えを無理に見つけることはないのかもしれない。
2013-07-12

電撃文庫の審査結果

一次選考で落ちました―。

けっこう狭き門だったのですね……。

いいとこまで行ったら持ち込みしたいと思います、とかツイッターで呟いてたのが恥ずかしくなりました。

気持ちを切り替えて次に行きたいと思います。

結果が気になって原稿にむかえなくなってたので、悔しくはありますがまあいいです(^_^;)。


二作品送ったのですが、マニアックな方をブログにあげようと思います。

タイトルは「油火(院政期歌人伝―待賢門院堀河・兵衛姉妹、藤原実能、藤原多子―)」です。

そうじゃないラノベチックな方の作品はどうしようか考え中です。

理想の姫君探しがテーマの、平安主従モノなんですが。

同人誌にして平安プチオンリーに参加するかな~。
プロフィール

ゆきめ

Author:ゆきめ
ブログタイトル:しおんのいだしぎぬ。

日々のこと、趣味について語りたいと思います。
心理学、西洋占星術、歴史(主に院政期)など。
よろしければおつきあいくださいませ☆

2012年11月6日ウェブリブログから移行しました。記事の上にある参照数とブログ気持ち玉はウェブリブログのときのものをそのまま載せたものです。

公募小説の投稿などは「遠野紗雪」という名前を使っています。
note、「小説家になろう」サイトにも投稿しています。

このブログ内の文章の無断転載等はおやめ下さい。

コメント本文にURLを記載したい場合は、URLかメールアドレスのところにでも張って、その旨をお書きください(スパムコメント防止のため)。
お手数おかけしますm(_ _)m

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター