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2018-02-24

「私本保元物語」完結!

やっと完成しました~\(^o^)/

最初に書いた「散りにし春の、名残をとどめて」から、数えてみたら九年八ヶ月という月日が経っていました。

長かった(T-T)

昔書いたお話とか、稚拙な上に文章表記もなってなくて、お恥ずかしいです。

思い入れのあるところとそうでないところの落差も激しいですね(苦笑)。

でもそれはそれで良しということにして、このお話はこれで終わりにしたいと思います。

私本平治物語の方も、できたら今月中に終わらせたいと思っていたのですが、難しそうなのでやめておきます。

今まで拍手やコメント、ありがとうございました。
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2018-02-24

歴史小説「乱後処理2」

そのうちに為義が出頭し、忠正や家弘・光弘父子も捕まった。
信西の命により為義は息子義朝に、忠正と家弘・光弘は清盛に斬られた。
忠正は清盛にとっては叔父であった。
為義の子息もまた、為朝を除いてことごとく処刑された。
為朝は再起を図って逃亡していた。


七月二十二日、新院はの元に、朝廷の使いがやって来た。
「明日、讃岐にお移りいただきたい」
新院は日頃から「我が身はどうなるだろうか」と心配しながらも、「出家したからには、さして重罪というわけでもなかろう。都近くの山里などに押し籠められるぐらいだろうか」などと軽く考えていただけに、この勅使の言葉は重くのしかかった。

心細さに胸を震わせているうちに朝になった。
美野前司保成が車を出し、佐渡式部大夫重成がやって来て、新院をお乗せした。
お供として従うのは女房三人ばかりであった。
やがて「出発します」との声があって、車は発進した。
前駆は華やかな御随身ではなく、荒々しい武者たちである。
往事との違いが忍ばれ、新院の目からは自然と涙が出た。
どこを通っているともしれなかったが、途中で新院は思い立った。
「故鳥羽院のお墓に詣でて、最後のお別れをしたいのだが、かなわないだろうか」
重成もたいへん素晴らしいお考えだと思ったが、
「決められた時刻に遅れてしまいます。後々のお叱りが恐ろしいことです」
と許そうとしない。
「そうか、かなわないか……」
新院はそう口にすると、鳥羽院の御墓である安楽寿院の方に車を向けさせて、何かを語りかけた。
車の外からは、涙に咽ぶ声しか聞こえなかった。
付き従っていた兵たちはこの様子を見て、皆涙を流したという。
重成もこの様子をうかがっていてあまりに悲しく、讃岐までのお供との命令を受けていたがあれこれ言って辞退し、他の者に代わってもらって都に帰ることにした。
新院は重成を呼んで、
「ここ数日間、自分を親身に世話をしてくれたこと、いつまでも忘れまい。讃岐までの供と聞いていたので安心していたのに、都に留まるとは心細いことだ。ところで、光弘法師に早く参れと言うように」
などという。
光弘法師は去る十七日の夜に斬られたのもご存じなくて、それを命じられたのもまたあわれなことである。


七月二十五日、頼長が亡くなってから十日ほどして後。
頼長が本当に死んだのか、調査が行われた。
官使(かんし)一人、滝口の武士三人が遣わされた。
所は大和国添上郡川上村般若野の五三昧である。
大路から東へ入ること一町あまり、玄円律師・実済得業の墓のなお東、ゆがんだ松の下の新しいのがそれである。
そこを掘ったところ、わずかに死骸はつながり、背後の肉は残っていた。
だが誰の死骸か見分けがつかないほど姿が変わっていた。
滝口たちは埋め直すこともせず、そのままうち捨てて帰ったという。

人はいう。
この左大臣殿(頼長)は容貌がまことに麗しいと、評判が天下に知れ渡っていた。
それだけに、今日の有様は異様である。
たとえ誰のものか不信が残るとはいっても、摂籙の家のもとに生まれ、大臣という尊位にいる御方の墳墓を突然に掘り起こして、死骸を調査するなど、あまりもいたわしく、情けないこと、と人々は噂し合った。

二十六日になると、頼長の子息右大将兼長十九才、中納言中将師長十九才、左中将隆長十六才、の三人が心を一つにして祖父忠実のもとに参上した。
「昨日、勅使が遣わされて、大臣殿(頼長)の死骸を調査したとのことです。親がこのようになってしまって、その子として、たとえ死罪は免れたとしても、これまでと同じように振る舞うのはどうでしょうか。お許しを得て、出家遁世でもして、ひっそりと生き延びて父の菩提を弔いたく思います」
三人は泣く泣く、こう訴える。
忠実もまた泣きながらこう返す。
「左府(頼長)が亡くなってから後は、お前たちを深く頼りにしている。もし、本当にそのようなことを決意したのなら、これから後、頼る者のない老いた自分は一日片時たりとも生きてゆくことは出来ない。大臣はこれまでもずいぶん意地の強い者だったから、死んだ後もその思いは持ち続けているだろう。お前たちもこのままの生活をして、時変わって朝廷に仕え、摂政、関白にもなって、父祖の後を継ごうとは思わないのか。深い罪に沈み、遠国に配流された者でも、生きていれば父祖の後を継ぐことが出来た者は、異国、本朝でも多くある。春日大明神(藤原氏の氏神)がお見捨てにならない限り、どうしてかなわないことがあろう」
三人は顔を見合わせる。
ーー祖父の夢を壊すのも、罪深いことーー
「わかりました。出家は思いとどまります」
師長がそう言って、三人はその場を後にした。

二十八日になって、頼長の子息たちは配流された。
兼長は出羽国、師長は土佐国、隆長は伊豆国、幼くして僧侶となっていた範長禅師は安芸国に、ということだそうだ。

この他にも教長は常陸国、成雅は越後国、成隆は阿波国、盛憲は佐渡国、経憲は隠岐国にそれぞれ流されたと言うことである。

忠実の方では頼りにしていた左府は亡くなってしまうし、その形見として可愛がっている孫たちも皆、他国に散り散りに流されてしまったということで、もはやこの世に生きながらえる甲斐はないと、心細く思い詰めて嘆き沈んでいた。

また、内裏の名代として少納言入道信西から「禅定殿下(忠実)も流罪とするように」という仰せが、関白忠通のもとに使わされた。
「畏まりました。ただし、父を配所に送っておいて、その子が摂籙として政務を相変わって執るのは、忠臣の礼に背くことになります。ここは、私忠通の関白辞表をお受け取りいただきましょうか」
苦みを潰した顔で、忠通は言う。
それを聞いた信西は短く
「ほう」
と言ったということである。
忠実を流罪にし、忠通も関白職から退くとなると、摂関を執らせる人間がいなくなる。忠通の息子たちはまだ幼少だ。
そこまで考えて、信西は使いの者にこう伝えさせた。
「確かに理にかなっている。禅定殿の配流は取りやめにしよう」
こうして忠実の配流は沙汰止みになった。
忠実自身は富家の別荘に帰ることを希望したが、朝廷からはゆるしが出なかった。
忠実子飼いの悪僧のいる奈良ではもっとまずい、それでは知足院に移そう、と朝廷は決定を下した。
勅命によって、忠通のもとから迎えをやったが、
「前例がない」
と言って忠実は移ろうとしない。
忠実は書状を提出したが受け入れられず、結局知足院に幽閉された。

保元の乱で、院方で一人処罰されていなかった為朝もまた見つかり、処分された。
武士たちを悉く処刑、それも親族の手で、という残酷なやり方に、やり過ぎだという非難が出はじめたためか、あるいは強弓を惜しまれたためか、為朝は処刑されず近江に配流された。

こうして、院方に参戦した者すべての処遇が決まったのだった。
2018-02-22

歴史小説「乱後処理1」

七月十一日の夜には、勲功の賞が行われた。
義朝は右馬権頭に任命され、陸奥新判官義康は昇殿を許された。
清盛は播磨守になった。
この論功行賞に対し、義朝はこう訴えた。
「この官は、先祖満仲が初めて拝任した官、その後拝任した最高位は本右馬権助です。それが今また権頭に転任するとは、とうてい勲功の賞とも思われず、面目が立ちません」
義朝は目をぎらつかせていう。
戦の名残が、まだ身体を駈けめぐっているのだろう。
「義朝は親兄弟を捨てて味方に参り、父に向かって弓を引くこともしました。忠功のほどは比べものになりません。たとい、卿相の位に昇るといっても誰も文句など言えないというものです。朝敵を滅ぼす者は日本国の半ばいただいて、その功績は末々まで受け継がれると聞いています。それがこのようなことでは、今後、何を張り合いにして朝敵を討てということでしょうか」
血走った目の義朝を恐れ、朝廷は恩賞を与え直した。
「確かに言い分はある。源義朝。左馬頭に転任しよう」
それを聞いて、義朝は安堵の表情を浮かべた。


戦いが終わった直後、忠実の許には「新院は合戦に敗れていずこともなく逃亡した」という情報が入ってきていた。
忠実は頼長の子供たちを伴って奈良に向かい、興福寺の寺主信実をはじめとする悪僧たちを集めた。
朝廷に対し、謀反を起こそうとしたのである。
しかし、この企みはすぐさま朝廷側の知るところとなった。
朝廷は悪僧たちの職を解き、関白忠通を氏長者に再び就任させた。
この氏長者就任に対し、忠通は真っ向から反発した。
「氏長者は、代々摂関家の内々で取り決められていたもの。朝廷に指図される謂われはござらぬ」
「摂関家内での継承が上手くいかなかったことこそが、今回の戦につながったのではございませんか? なに、悪いようには致しませぬ。関白殿におかれましては、謹んでこの措置を受けいられますよう願いたいものですな」
信西はうっすら笑って言った。
その態度には、有無を言わさぬものがあった。
ーーお主は黙って私のいうことを聞いていれば良いーー
そんな信西の声が聞こえてくるようでもあった。
「くっ」
忠通は、信西に聞こえぬよう小さく舌打ちをするしかなかった。


十五日には、謀反人の事情聴取が行われた。
謀反人は、左京大夫教長、近江中将入道源成雅、四位少将成隆、能登守家長、式部大夫盛憲、蔵人大夫経憲らが、東三条殿で取り調べを受けた。
なかでも盛憲と経憲は左大臣の外戚なので事情に詳しく、近衛院と美福門院を呪詛したことにも関与しているだろうとされ、拷問を加えられた。
放免のものが衣装を剥ぎ取り、首に縄をかけた。
両人は手を合わせてこれは一体どういうことか、と悶えるのがまた嘆かわしい。
それを目の当たりにした官人たちは見るに忍びず、横を向いた。
二人は刑法の定めによって七十五度の拷問を受けた。
はじめは声を出して悲鳴を上げていたが、後になると声も出なくなった。
苦しんで、気を失ってしまったのは痛ましい。


また、朝廷は新院の皇子重仁親王を数日来探していたが、行方はわかっていなかった。
女房車に乗って朱雀門を通ったのを見つけた者がおり、その者は内裏へと報告した。
使いの者がやって来て、
「どこへいくのか」
と尋ねる。
「出家のために、仁和寺に行くところです」
それを聞いた使いの者がすぐさま返答をする。
「早く、宿願を遂げられるが良い」
重仁親王は伏し目がちなリながらも、
「案内を、お願いします」
と申し出た。
使いの者は直ちに花蔵院の僧正寛焼の元を訪れ、重仁親王を明け渡した。
「即刻髪を剃って差し上げるよう」
使いの者はそう言うが、僧正は再三に渡り辞退した。
しかし、重ねて宣旨が下り、やむなく髪をそり落とした。
常日ごろ、万人が「この君が皇位にふさわしい」と信じていたのに、このように出家なさるのは、全くもって嘆かわしいことである。

この親王は故刑部卿忠盛(清盛の父)が養い君にしていたので、清盛も見放しがたいことであった。
清盛は重仁親王の出家のことを伝え聞いて、ひそかに涙を流したということである。
2018-02-22

「私本保元物語」参考文献一覧

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大石幹人 1999 「院政期貴族社会の男色意識に関する一考察ー藤原頼長に見る男色関係の性格ー」 福島県立博物館紀要第14号
大隈和雄 1999 愚管抄を読む 講談社
河津優司 1998 よくわかる古建築の見方 JTB
河内祥輔 2002 保元の乱・平治の乱 吉川弘文館
川端善明・荒木浩(校注) 2005 古事談・続古事談 岩波書店
神田龍身 1996 「男色家・藤原頼長の自己破綻」王朝の性と身体所収 森話社
朧谷寿 1991 王朝と貴族 集英社
五味文彦 1984 院政期社会の研究 山川出版社
下向井龍彦 2001 武士の成長と院政ー日本の歴史07- 講談社
白州正子 1996 西行 新潮社
高頭忠造 1899 史料大觀・台記 哲學書院
竹鼻績 1984 今鏡 講談社
武田昌憲(訳)・西沢正史(監修) 2005 現代語で読む歴史文学「保元物語」 勉誠出版
棚橋光男 2006 後白河法皇 講談社
東京書籍株式会社 1994 新総合図説国語 東京書籍印刷株式会社
東京大学史料編纂所 1939 大日本史料第三編之九 東京大学出版会
角田文衛 1985 待賢門院璋子の生涯ー椒庭秘抄ー 朝日新聞社
角田文衛 1977 王朝の明暗 東京堂出版
新間進一・外村南都子(校注・訳) 1988 梁塵秘抄 小学館
永積安明・島田勇雄(校注)1963 古今著聞集 岩波書店
日本古典文学大系 愚管抄 1967 岩波書店
野中哲照 「保元物語」における<鳥羽院聖代>の演出--美福門院の機能をめぐって 国文学研究所収 早稲田大学国文学会
橋本義彦 1996 平安の宮廷と貴族 吉川弘文館
橋本義彦 1976 平安貴族社会の研究 吉川弘文館
橋本義彦 1954 人物叢書藤原頼長 吉川弘文館
服部敏良 2006 王朝貴族の病状診断 吉川弘文館
濱島正士 1995 寺社建築の鑑賞基礎知識 至文堂
東野弘之 1979 「日記に見る藤原頼長の男色関係ー王朝のウィタ・セクスアリス」ヒストリア八四所収
樋口健太郎 2005年 藤原師長の政治史的位置-頼長流の復権と貴族社会- 古代文化
久松潜一・山崎敏男・後藤重郎(校注) 1958 新古今和歌集 岩波書店
日下力 2017 保元物語 KADOKAWA
保立道久 1999 平安時代 岩波書店
保立道久 1996 平安王朝 岩波書店
美川圭 2006 院政ーもう一つの天皇制ー
美川圭 2003 白河法皇 日本放送出版協会
元木泰雄 2000 藤原忠実 吉川弘文館
元木泰雄 2004 保元・平治の乱を読みなおす 日本放送出版協会
柳瀬喜代志・矢代和夫・松林晴明・信太周・犬井善壽 2002 将門記・陸奥話記・保元物語・平治物語 小学館
山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進(校注・訳) 1998 栄花物語 小学館
山内益次郎 1989 二代の后多子ー『今鏡』人物伝の周辺 武蔵野女子大学紀要編集委員会
渡辺晴美 1993 藤原忠通研究ーその結婚をめぐってー 立正大学国語国文29所収
2018-02-22

歴史小説「頼長最期」

七月十二日。
頼長一行の方では、頼長が目だけは動かすので、「今一度禅定殿下(忠実)にお目にかかろう」ということになった。
昨日のように車に乗せ、人目を避けながら嵯峨を出た。
梅津まで小舟に乗せ、身体の上に柴を積んだ。
爪木舟(薪を運ぶ舟)を装って、どうにか下るうちに日も暮れたので木津に留まった。

翌十三日、杵(ははそ)の森のあたりから使いをやって忠実に報告させた。
忠実は頭を垂れ、うなずき、直ちに走り出して対面したい、と思った。
だが世間をはばかり、涙をこらえてこう言い捨てた。
「昔から、氏の長者たる者で合戦に臨んで矢に当たるなどする者がいるだろうか。さような不運な者に、対面できようか。自分に関わりのないところへ、落ちていけ」
使いの者は驚いてこの報告をした。
その由を聞くやいなや、頼長は舌の先を食い切って吐き出した。
奈良で玄覚律師(頼長の祖父師実の子)を尋ねたが不在だった。
そこで玄顕得業(頼長の母方の従兄弟で、経憲の弟)に知らせたところ、急いでやって来た。
頼長を輿に乗せて、奈良に運んだ。
自分の坊は寺の中で人目に触れるということで、近くの小屋に入れた。
あれこれ看病し、重湯など差し上げたが、少しも口にせず、ますます弱る一方であった。
玄顕は枕もとで、
「玄顕が参りました。得業が参りました。おわかりですか」
と呼びかけた。
頼長は少しばかりうなずいたが、言葉を発することはなく、間もなく息が絶えた。
父に見捨てられた頼長が、最後に何を思ったのか。
その心中を、誰も知ることは出来ない。
保元七月十四日午の刻に、左大臣頼長はこの世から儚く消え去った。
夜になって般若野の五三昧に運んだところで、付き従っていたものはみな散り散りになった。

蔵人大夫経憲は最後まで頼長に仕え、髻を切って禅定院という寺院にいた。
忠実の許に出向き、頼長のようすを報告する。
すると忠実は目を閉じ、ぽつぽつと語り始めた。
「頼長自身もこのような有様になってしまったが、それにつけても子供たちのことが気がかりだったのではないだろうか。今となっては甲斐のないことだが、摂政関白になって天下の治政を執るだろうと期待していただけに、老いた自分を残して先立つ事になろうとは、悲しいことだ。それにしても、まさか死ぬとは思わなかった。心を鬼にして対面しなかったが、頼長はどんなにか恨んでいたことだろう。こうなるのだったら、人目を恐れず、優しくもてなしてやれば良かったものを。せっかく機会がありながら、最後の対面をしなかったことが悔やまれる」
経憲は忠実の繰り言に反発を覚えながらも、黙って聞いていた。
「それにしても……」
忠実は目を開いて、少し奥を見た。
「今度の合戦で、源平武士たちの中でも主だった者は一人も討ち死にしていないのに、何者の射た矢なのだろうか。よりにもよって、流れ矢に当たって死ぬとは。頼長は不運だったとしか、いいようがない」
ーー不運だったから、仕方がない。禅定殿はそう言いたいのだろうかーー
経憲には、忠実の発する言葉の一つ一つが、自己弁護にしか聞こえなかった。
もちろん立場上、意見することなど出来ないのだが。
忠実は、なおも泣きくどく。
「子に先立たれる嘆きほど、つらいものはない」
経憲を除いた下々の者は、皆泣き悲しんだという。
自分たちとは関係のない第三者としての気楽さから、そんなふうに泣けるのだろう。
少なくとも経憲は、そう感じたのだった。
2018-02-21

歴史小説「新院出家2」

新院一行は山中に隠れていた。
だんだん日も暮れてきたので夜の闇に紛れて山を抜け出た。
家弘・光弘父子で、新院を交代で肩にかつぎながら。
法勝寺の北、東光寺のあたりで輿を探し求めて、新院をお乗せした。
「どちらへ参りましょうか」
光弘が尋ねる。
新院はしばらく無言でいたが、しばらくしてから消え入るような声で
「阿波の局の許へ」
と答えた。
二条大宮まで出かけて案内を乞うたが、門戸は閉じたままで戸をたたいても返事がない。
「……それでは、左京大夫の許へ」
合戦の際に逃げ出すまで一緒だった教長の邸を訪ねたのだが、そこでも
「今朝方、合戦の場からどこかへ姿を消したままで、帰ってきていません」
と言われるばかりで門を開けようとはしない。
新院の顔には諦観の色が浮かぶ。
それでも絞り出すような声で、言葉を発する。
「それでは、少輔の内侍の許へ」
だが、そこにもまた誰もいなかった。
新院は伏し目がちになっている。
気落ちしているようであった。

家弘・光弘父子は思いがけず御輿を自らかつぐことなり、すっかり疲れ果てていた。
合戦では戦い敗れ、武具は重く身に堪える。
その上あちこち出向いたにもかかわらず、何も得られなかったというのでは、くたびれるなと言う方が無理な話である。
何が何だかわからなくなり、こうなった上は自害でもしてしまいたいとすら考えるが、新院一人を取り残すわけにはいかない。
新院もまた、合戦に紛れて食事もとっていない状態だったので、身体が弱り、このまま死ぬのかと思い詰め始めている。
そうこうしているうちに知足院の傍らに、誰の者ともしれぬ僧房があったので新院をそこへお入れしたところ、そのまま倒れてしまった。
家弘が、かゆを作ったところ、新院は少し召し上がった。
その後、ひそかに僧を一人呼んで、髪を下ろした。
光弘も続いて髻を切った。
家弘も髻を切って出家しようとしたが、
「お前まで出家しては罪深いこと」
と新院が止めるので、思いとどまった。

しばらくして家弘が新院に尋ねる。
「さて、どちらへ参りましょうか」
新院は決心をしたようすで、
「こうなったら、仁和寺の五の宮(新院の同母弟)の許へ行こう。ただし、案内を乞うてはならない。無理にでも輿をかつぎ入れよ」
と言う。
急いでかつぎ入れ、家弘は北山へ逃げた。
五の宮は故鳥羽院の供養のために鳥羽殿に出かけていた。
そこへ仁和寺の者が新院が来たことを急いで告げに来た。
五の宮覚性法親王はたいへん驚き、
「仁和寺の御所へ入ることは絶対に許されない。寛遍法務の坊へお移しして後、内裏へ報告するよう」
と命じた。
覚性法親王はそうは言ったものの、同母の兄には何くれとなく世話になってきたので、心苦しいことこの上なかった。
だが、上皇方が天皇方に負けて敗軍となった以上、上皇の肩を持つわけにはいかない。
私には守らなければならないものが、たくさんあるのだ。
覚性法親王は、そう思い直して鳥羽殿の元の場所へと戻っていった。

新院は寛遍法務の坊に移らされたが、しかるべき人々がお仕えするわけでもなく、女房が二、三人いるだけであった。
涙が溢れるばかりで、御心の晴れることはなかったが、嘆きのあまり和歌が自然と口をついて出た。

思ひきや身を浮雲になしはてて嵐の風に任すべしとは
(これまで思ったことのない身の上。浮雲のごとくたよりなく、嵐の風に身をまかせ、ただようのみ)

憂き事のまどろむほどは忘られて醒むれば夢のここちこそすれ
(まどろむ間だけはこの憂さを忘れられるというもの。覚めて一瞬、よみがえりくるこの憂さ、夢であってほしい)

この和歌に、女房たちはもらい泣きしたという。
2018-02-21

歴史小説「新院出家1」

家弘は言う。
「敵に追いつかれてしまいます。早く逃げのびなければ」
「この期に及んで、私のことをかまわなくてもよい。皆、これほどに奉公してくれて……。無駄死になどさせては、可哀想だ」
新院は涙ぐむ。
周りの者たちもまた嗚咽をこらえ始める。
それでもある者は言う。
「一度、院に差し出した命ゆえ、後悔はありません。ここはともかく院の行く末を見届けてから、私どもも死ぬ覚悟です。お見捨て申し上げて、どうして、我々だけ退くことができましょう」
この声に、他の者も同調した。
「志はありがたいが……」
新院が声を落とす。
「私一人であれば、敵が襲ってくることはないと思う。私は曲がりなりにも太上天皇だから」
新院の表情に自嘲の色が浮かぶ。
「だがおまえたちと一緒にいると、戦意があると見なされて攻撃されてしまうのだ」
「そんな!」
「頼む。わかってくれ」
苦渋に満ちた声と目で、新院は語る。
それでも兵たちは、涙に咽びながら口々に言いつのる。
「なんとしてでも、お供を、したいのです」
「その申し出は、かなえるわけにはいかない」
わかってくれ、とでもいうように、新院は周りの者たちをぐるっと見渡した。
少し間があった後、兵たちは一人、また一人とその場を離れた。
涙を浮かべる者もいたし、しゃくり上げている者もいた。
新院はきつく目を閉じ、何も見ないようにしていた。

兵たちが去ってから、家弘は尋ねる。
「よろしかったのですか?」
「良いのだ。いたずらに命を落とさせては、不憫だ」
よどむことなく、新院は言う。
だが声の調子には寂寞とした響きがあった。

その日家弘・光弘父子は新院の御手を引いて、谷の方に下った。
身体の上に芝をおいてそのお姿を隠した。
二人は近くの木陰に隠れて、見張りをしたという。
2018-02-19

歴史小説「敗走2」

新院も、頼長も、北へ向かっていく。
敵が攻めかかったために、御供の武士が防ぎ矢を放って二人を先へ通す。
新院が先に行き、続いて頼長も、というときであった。
誰が射たとも分からないような矢が流れて来て、頼長の首に刺さった。

頼長を抱きかかえながら馬に乗っていた成隆が、矢を抜いて捨てる。
血の流れは竹の筒から流れる水のようであった。
白青の狩衣が、見る間に濃紅に染まった。
頼長は気を失っている。
手綱を握ることも出来ず、頼長は馬から落ちそうになった。
成隆はしばらくのあいだ抱きかかえていたが、馬が勇み立つのはどうすることもできない。
頼長は落馬し、成隆もそれに引きずられて崩れ落ちたが、頼長のことは抱えたままであった。
式部大夫成憲が馬から飛び下り、頼長の頭を膝にかき乗せ、顔を袖で覆って泣いていた。
頼長は目を見開いていたが、なにを言うこともない。
たった今まであれほど威厳にあふれていたようすも、無残な姿に変わり果てた。
なんとも嘆かわしい限りである。

先を駆けていた家弘がこれを見つけ、それより先に進んでいた家来を呼び戻してこのことを忠正に告げさせた。
忠正は言う。
「おいたわしいこと、もはやこれまで」
観念して急ぎ引き返し、頼長を馬にかつぎ乗せようとしたが、頼長はもはや乗れそうになかったので近くの家にかつぎこんだ。
傷口を温めてよくよく見たところ、矢は左の耳の付け根から喉の方へ、逆さまに刺さっていた。
ただ事ではない、神の矢だろうかと、皆不審がったということである。
内裏の官軍たちは忠正たちがここに隠れていることには気づかず、北白河円覚寺のほうに向かっていった。
その紛れに、蔵人大夫経憲(頼長の母方の従兄弟)の牛車を取り寄せて乗せ、嵯峨の方へと連れ出した。
経憲の父、顕憲の山荘の僧を訪ねたが不在だったので、近くの小屋に下ろした。
日も暮れているので、今夜はここに留まることにした。

その頃、新院は如意山に入山しようとしているところだった。
お供の者が駆けつけ、新院に向かってこう伝える。
「左大臣さまが、お討たれになりました」
「なんと!」
新院は声を上げるものの、二の句が継げないようであった。
しばらく経ってから聞き取れないぐらいの小さな声で、
「たいへんな世になってしまった」
と言った。
途方に暮れたようすで、呆然としていたということである。
2018-02-19

歴史小説「敗走1」

新院の味方の軍勢は、義朝軍の前に破れて四方に散り失せた。
口を真一文字に結び、何かに耐えているようだった新院は、静かに立ち上がった。
「新院!」
教長が声をかける。
そこへ左衛門大夫家広と、その子息光弘の二人が、馬に乗りながら御所の西門から馳せ入り、新院の御前に参上した。
「御所に火がかかったことで、お味方の兵たちは皆、散り失せてしまいました。敵がもう御所内に入って満ちあふれております。この御所にいては、攻撃にはとても耐えられません。この上は、いかに」
新院は途方に暮れた。
頼長もまた、どう判断して良いか分からず、途方に暮れたようすである。
それでも新院はしばし考えた後、四位少将藤原成隆を召して、御劔(みつるぎ)をお与えになった。
「私の命を、助けよ」
その姿は貴い太上天皇のそれに違いなく、そばにいる者はあまりの神々しさにむせび泣いた。
この御方の命だけはなんとしてでも助けなければ。
武士や下級役人の心は一つになった。
新院が馬に乗る。
その新院を抱きかかえるようにして、蔵人大夫源信実が馬の後ろに乗る。
同じように、頼長は藤原成隆に抱きかかえられて馬に乗る。
二人を逃がした後、武士たちは少しでも時間を稼ぐために敵を蹴散らした。
なんとか無事逃げおおせてくれればいい。
そう願いながら。
2018-02-18

歴史小説「合戦」

「夜討ち、だと」
頼長が呟く。
遠く敵兵の攻撃の音を聞きながら、信じられないものを耳にした、といったようすで。
為朝は、そんな頼長を一瞥したが、言葉は発しなかった。
黙って身支度を調え、戦場へとかけていく。
頼長は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。

上皇方は為朝の奮戦もあって健闘した。
為朝の奮戦は、先祖の八幡太郎義家もかくや、と思わされるようなものであった。

苦戦を強いられた義朝は、ある作戦を信西に献策する。
「敵は思いのほか強く、簡単には倒せそうにありません。この上は御所に火をつけるしか、方法はないでしょう。風がなびいて近くの法勝寺をも焼き滅ぼしてしまうかもしれませんので、恐れ多くも申し上げております」
信西は顔色一つ変えずに、こう言ってのけた。
「義朝は愚かしいことをいう。主上が、それ相応の力をお持ちの天皇でいらっしゃれば、法勝寺程度の建物は一日ででもお建てなさるであろう。問うてくる必要もないこと。御所に火をつけて攻めよ」
義朝はそれを聞くと深々と礼をし、家来に命令をした。
「御所の北に当たる藤原家成卿の屋敷に、火を放て」
家来がそれを実行すると、火は瞬く間に燃え上がり、西風に煽られて御所は猛火に包まれた。
御所の中の武士たちは煙にむせび、目も開けられない。
義朝以下の兵らは、喜び勇んで攻めたてた。
2018-02-17

思いつきホロスコープ診断20

藤原忠通のホロスコープを診てみたいと思います。

承徳元年閏1月29日 
西暦にすると1097年3月15日京都生まれ

〈ユリウス暦で診た改訂後〉
牡羊座の太陽
誇り高く自己の能力への絶対的価値観を持ち、一度理想に目覚めると、艱難を辞さない勇気と燃えるような情熱を持って目的に直進していきます。
開拓精神を忘れず、あらゆる分野でパイオニアになる可能性を持っています。
主導権を握ることも多いでしょう。
障害があるとかえって燃えるタイプでもあります。

魚座の月
同情心が強くセンチメンタルな性格です。
感受性が強く、物事に感動しやすい反面、過度に感情に溺れる傾向があります。
ある程度の芸術的天分もありますが、現実離れした夢や憧れを持ちやすいところもあります。

太陽・水星・金星・天王星・冥王星が全て牡羊座
意思・知性・ロマンス・革新性・権力の現れ方などがすべて「牡羊座的に」働きます。
情熱で、エネルギッシュ。
負けず嫌いでもあるでしょう。

月と木星の合(0度)
楽観主義的な人生観を持ち、のんきで寛容な性格です。
同情心が強く人をよく保護する性質を持ち、健全な実務能力もあります。
社会的地位の高い友人から援助を受け安く、富の獲得が容易です。

これに土星がオポジション(180度)
慎重さに欠けるところがあったかもしれません。
反面で疑い深さが災いして、簡単に「富の獲得が容易」とはいかなかった可能性もあります。

太陽と火星の合(0度)
大胆で勇気があり、体力の続く限りよく働く人となるでしょう。
短期で衝動的に行動しやすいことが欠点。
人生に対する意欲が旺盛なためか、意思と欲望との間に葛藤も生じます。

これに海王星がトライン(120度)
上記の特性に、理想主義的なものが加わります。
夢見がちな面が表出する可能性もあります。

不動宮に惑星が0。
不動宮に多くの惑星のある人は忍耐強く抵抗力があり、持久力に富み、容易に目的を変更しません。
一定の方針を有し信念を堅持します。
この不動宮に惑星が0ということで、忍耐強さや信念を全うする力が欠けていたように思います。


〈グレゴリウス暦で診た改訂前>
魚座の第三旬の太陽。
魚座に太陽を持つ人は奉仕精神に富み、いかなる環境や立場にも素直に馴染める順応性の持ち主です。
世俗を離れたところで生きようとし、物質的成功は望まないようなところがあります。
意志薄弱で他人に感化されやすく、利用されやすいのが欠点です。
第三旬の魚座。
魚座の支配星である海王星の他にも冥王星の影響を受けます。
海王星の理想主義に冥王星の変容性が加わり、感激しやすく感情の起伏の激しい人となります。
冥王星の否定的性質が現れると、感情が理性に勝って、衝動を抑えられなくなります。

射手座の月。
楽天的で快活な人柄です。
知的レベルが高く、良き教養人としての素質もあり、しかも野性味もあります。
思想でも仕事でもスケールの大きなものを好み、何事にも精力的に取り組みますが、反面無造作で不用意な行動も多いようです。
多情で浮気っぽく、多くの異性と交渉を持ちやすいでしょう。

水星、冥王星、カイロンが牡羊座で合。
知性やコミュニケーション能力・権力や刷新性・癒しやトラウマが全て行動的・衝動的に働きます。
権力を行使する際に知性が効果的に働きやすく、他人の弱みをこれに利用するようなこともあったのではないでしょうか。
水星と冥王星の合はタフな思索力と知識の吸収力を持ちます。
鋭敏な感覚と優れた神経集中力があります。
苦悩を放棄し新しいアイディアに走るか、思想の転換を図ることによって精神的危機を乗り越えます。

太陽、金星、火星が魚座で合。
意志・恋愛・情熱が魚座的に働きます。
情熱的な恋愛を志向しやすいところがあったのではないでしょうか。
その恋愛スタイルは奉仕に喜びを見出したり、同情から恋愛が始まる、といったスタイルだったように思います。
太陽と金星の合。
品性穏やかで情愛細やかな性格ですが、男性はやや柔弱。
上位者から愛顧されやすく、また上流の社会に属する人々との間に友情を持ちます。
太陽と火星の合。
男性的な高貴な性格と肉体的なたくましさを与えます。
大胆で勇気があり、体力が続く限りよく働く人となる。
主導的立場に適しますが、短気で衝動的に行動しやすいことが欠点です。
人生に対する意欲が旺盛なためか、意志と欲望との間に葛藤も生じます。
火星と金星の合。
情熱的で官能的な性質を持ちます。
愛する能力と美を楽しむ能力はたくましい。
愛に起因した事柄によって闘争本能を刺激されやすいけれど、怒りを鎮めるのも早い方です。

太陽、金星、火星の合に海王星がトライン。
ロマンが調和的に働きます。
太陽と海王星の吉座相(トライン)。
洗練された清廉な人柄を与えます。
また心理的・創造的な才能があり、虚構の世界で成功しやすいでしょう。
公的権力を駆使する能力には乏しいけれど、相当の名声を博し大衆に慕われます。
金星と海王星の吉座相(トライン)。
洗練された高尚な趣味を持ち、音楽や芸術への献身性を持ちます。
実社会で戦う力には欠けますが、芸術家には有利に働く座相です。
火星と海王星の吉座相(トライン)。
力強く熱心な性質です。
主観が鋭く、理想を熱心に推進します。
精神的大望のために感情と情熱をコントロールする気分が強く、寛大な性質が名声をもたらします。

太陽、金星、火星の合、月、土星が月を中心にT-スクエア。
魚座的に働く意志・恋愛・情熱が、感情や努力の方向性と齟齬をきたす、艱難辛苦の配置です。
太陽と土星の凶座相(オポジション)。
実力が十分であったとしても不運な傷害に遭いやすく、人生上の発展を阻止されがちです。
野心家であるわりには小心で、向かない環境が失敗の原因を作ります。
過度の警戒心と他人への冷淡さのために人望を失います。
義務観念に縛られやすく、社会的成功者となってもどこか人生に失敗感が付きまとうでしょう。
月と金星の凶座相(スクエア)。
若干の内気と気弱さがみられます。
やさしさを他人に利用されやすく、評価判断力が弱いため憂愁を持ちます。
月と土星の凶座相(スクエア)。
劣等感を持ちやすく、常に心に不満を抱えていて憂鬱です。
取り越し苦労をしやすく、自信欠如のために好機を失います。
満たされない寂しい人生となりやすく、男性は妻運に恵まれない傾向があります。
金星と土星の凶座相(スクエア)。
低級な色情に赴きやすく、素直な情愛に欠けるために異性から見捨てられます。
財政的な苦労や物質的な心配が生じやすい。
他人の冷遇に対して恨み心を持つために共同者を失います。

不動宮に惑星が0。
不動宮に多くの惑星のある人は忍耐強く抵抗力があり、持久力に富み、容易に目的を変更しません。
一定の方針を有し信念を堅持します。
この不動宮に惑星が0ということで、忍耐強さや信念を全うする力が欠けていたように思います。


魚座と牡羊座のマジョリティが目立ちますね。
奉仕精神に富んでいながら、積極的で負けず嫌いなところがあり、葛藤の多い人生だったのではないでしょうか。
太陽(意志)と月(感情)もスクエアですし。

太陽・金星・火星、月、土星からなるT-スクエアが効いている印象です。
惑星の数も多いですし。

地の星座が一つ、風の星座が0ということから、現実的な感覚に欠けるウェットな性格の持ち主だったように思います。

他には芸術的な素養が目立ちます。
政治家よりも芸術化に向いてますね。

「野心家であるわりには小心で、向かない環境が失敗の原因を作ります。
過度の警戒心と他人への冷淡さのために人望を失います。」
私の忠通像はこの一言に尽きますね。

あとは「評価判断力が弱いため憂愁を持ちます。」
決断力には乏しいですよね……。


プログレス法で見る保元の乱・平治の乱。

保元の乱の際には座相は形成されていませんでした。

平治の乱の起こった忠通満62歳のときには
月と木星が合を形成しています。
非常に良い座相で、幸運期を示します。
過去の努力から報酬を得たり待ち望んだ朗報が届くこと、健康の回復・仕事の発展と拡張・物事の改善の好機に恵まれることを示し、それに富と名声も加わります。

経宗の失脚がありましたね。
清盛の経宗・維方に対する拷問の場には、忠通もいたとか。
摂関家が一時盛り返した時期だったのでしょうか。


トランシット法で見る保元の乱。
トランシットの火星と木星の衝(オポジション)が形成されています。
仕事上の悪い判断と凶運が結びついて、金銭的・物理的な損害を受けやすい時です。
この時期は、すべての事柄に熱狂的にならないよう注意すべきです。
この熱意は損失をもたらすのみで、何事も益することがないからです。
リスクを伴う投資や勝負事、ギャンブルなども避けるのがよいでしょう。

辛くも勝利しましたが、失ったものは大きかったですね。
時期的にもかなり悪かった。


なかなか読むのが難しいホロスコープで、まとまりに欠ける診断になってしまいました。
個別で診ていくとなるほどーとなるのも多いのですが、全体的にみるとみえてくるものがないというか。
まあ感想としては芸術家タイプでありながら権力志向が強く、しかし能力的には劣っているために自分でも予期せぬ人生を送ることになった、という感じでしょうかね。

2014年1月23日

*****
これで思いつきホロスコープ診断の工事が終わりました\(^o^)/
すべてユリウス暦で診た、ハズ。
2018-02-04

ご報告

私の誕生日に交際している人からプロポーズされまして、結婚することが決まりました。

最近転職もしたので、忙しくなりそうです。

転職先には三月一日から勤務することになってまして、二月は有休消化でまるまる休みです。

二月中にやりたいことはできるだけやっておきます。

その後は、執筆活動及び歴史オタク活動はしばらくお休みしようかな、と考えています。

休みとはいかないまでも、執筆ペースを落としたり、オタク活動をセーブしたりすることにはなりそうです。

なんというか、結婚は生活だと考えているので。

私ばかり好きなことをするわけにはいかないかなあと。

ブログは見栄え的に月に一度は更新するようにしていたのですが、難しくなりそうです。

今まで「紫苑の出衣」にご訪問いただき、ありがとうございました。

ブログを消すつもりは今のところありませんが、この場でお礼を言わせてください。

歴史オタクとしての活動をセーブすることはもちろん寂しいのですけれど、結婚が決まって今とても幸せです(*^_^*)

執筆活動は細々とではあっても続けていくつもりですし、小説家になる夢をまだ諦めたわけではありません。

諦めの悪いタチなので(笑)。

以上、報告でした!
プロフィール

ゆきめ

Author:ゆきめ
ブログタイトル:しおんのいだしぎぬ。

日々のこと、趣味について語りたいと思います。
心理学、西洋占星術、歴史(主に院政期)など。
よろしければおつきあいくださいませ☆

2012年11月6日ウェブリブログから移行しました。記事の上にある参照数とブログ気持ち玉はウェブリブログのときのものをそのまま載せたものです。

公募小説の投稿などは「遠野紗雪」という名前を使っています。
note、「小説家になろう」サイトにも投稿しています。

このブログ内の文章の無断転載等はおやめ下さい。

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お手数おかけしますm(_ _)m

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